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本の紹介(No.29)
「
志村正順のラジオ・デイズ」(尾嶋義之著)
志村正順は1913年、東京・荒川区の南千住に生まれた。当時は、まだ郡部で
東京府北豊島郡南千住町と称した。父は「川萬商店」という乾物屋を営んでいた。
少年時代は野球に明け暮れた。これが後年スポーツ・アナとして才能を発揮する
“芽”となる。日大付属中学を卒業後大正大学予科に進む。僧侶になるためである。
ところが、悪友に誘われ酒、マージャン、ダンスに明け暮れ、「僧侶には向かない」
として明治大学政経学部に入り直す。1936年、大学を卒業するが、銀行・生保などの
採用試験には失敗、やっとありついたのが「シンガーミン」の外交員。ところが、
卒業の年の5月、日本放送協会がアナウンサー採用試験をすることを知り受験する。
約千人の応募があり、23人の合格者のうちの1人となる。合格者名は写真入りで
都新聞に掲載された。「川萬のドラ息子がねえ、偉いねえ」と近所の人は言い合った。
家業も手伝わず、毎晩遅く帰宅していた志村正順。近所では「ドラ息子」という評判
だった。
1938年7月、志村雅順は名古屋中央放送局に転勤する。同時に新橋(田村町)の
喫茶店「エーホ」の女店員木村道子を名古屋に呼んで同棲、まもなく結婚する。
学生時代に身につけた「ダンス」が、道子をゲットするのに一役買ったようだ。一年後、
志村正順は東京に呼び戻される。
大相撲の実況放送は、1940年1月の春場所から。藤ノ里が土俵際で播瀬川を、
うっちゃりで勝ったのが、最初に体験した取り組みであった。
1943年10月21日、明治神宮外苑陸上競技場で行われた「出陣学徒壮行会」、
志村正順はアナウンスを担当する。放送開始一分前、先輩の和田信賢アナから
「志村、おまえやれ」との一言で決まった。志村正順は急拠マイクに向かう。2時間半に
わたるアナウンスを行い、最後に「……かくして学徒部隊は征く。さらば征け、征きて
敵英米を撃て。征き征きて勝利の日まで大勝をめざし戦い抜けと念じ、はなむけと
致しましてここに外苑競技場の出陣学徒壮行会中継放送を終りたいと存じます」と、
結んだ。後に「歴史的な大放送」となった。
戦後の志村正順の活躍は華々しい。プロ野球、大相撲、そしてヘルシンキ・
オリンピック(1952年)。東富士、羽黒山、大下弘、川上哲治等の選手たち。そして、
神風(大相撲)、小西得郎(プロ野球)といった解説者たちとともに志村正順の活躍した
戦後の一時期が思い出される。
1953年2月1日、NHKがテレビの本放送を始めたときの第一声も志村正順が担当した。
しかし、本格的テレビ時代に入ると、アナウンサーの役割は変わる。すなわち「説明の
し過ぎ」は、マイナスになる。また、志村正順も、その年齢から管理職となり、心ならずも
現場から遠ざけられてしまう。
終りの数章は、一般の「サラリーマンの最後」を見るような、一種の寂しさとして描かれて
いる。(O・R)
(2001年・新潮文庫・476円+税)
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