本の紹介(No.32)

「日本居酒屋放浪記ー疾風篇ー」(太田和彦著)


  グラフィックデザイナーの著者(一九四六年生まれ)が、全国の古い
居酒屋を訪ね、その体験を書き綴った本。
  函館、山形、水戸、東京下町、横浜、富山、徳島、高知、大分、長崎。
これが本書でとりあげられた「居酒屋のある町」だ。著者太田和彦の
文章は極めて魅力的。臨場感たっぷりに、各地の居酒屋の情景を活写
する。
  「薬味を山盛りののせ一切れほおばると、生臭味、こげ風味、薬味の
青い香り、ちり酢の酸味と醤油味、そしてニンニクが混然となり、やはり
とてもうまい。時おりしも初カツオの時節。今日明日と本場のカツオを
食べ尽くしてやろう」(高知「土佐藩」)
  「ングング……。冷たいビールが気持ちよく喉をおちてゆく。こごみ、
  こしあぶら、たらの芽の山菜天プラはカラッと揚がりとてもおいしい。
  もりそばは五百円。標準的な中細打ちで薬味は刻み白ネギのみ。
  それは使わず一箸をつゆに浸し口へすべらせた」(山形のそば屋
  「萬盛庵」)
  酒やツマミの描写だけではない。店員との会話のヤリトリがところ
どころに挿入されている。長崎のおでん屋「桃若」でのことだ。
          〇
  二、三品たのみ、まずおつゆをすすった。薄味なのにコクがありとても
おいしい。練辛子と佐賀名物柚子胡椒がカウンターに並ぶ。爽やかな
柚子の香りと青唐辛子の切れ味の私の一番好きな香辛料だ。おでんの
味がピリッとひき立つ。
  「この店はいつ頃からですか?」
  奥さんに話しかけた。
  「昭和六年です。私は三代目で十九年になります。戦後からこの
  場所です」
  「桃若という名がいいですね」
  「祖母が丸山に上っていた時の源氏名で、店を始めてそのまま
  使ったんです」
  「当時、丸山の三台名妓と言われたそうですよ。宮尾登美子の小説
  『陽暉楼』の主人公が桃若ですから高知から来た名でしょう。実は
  私も高知の出ですが」と主人が話を継いだ。
  奥さんは客商売が嫌でサラリーマンと結婚したいと思い、ある大手
企業の長崎支社に赴任中の常連客を見染めた。
  「それがいつの間にか、私もカウンターのこちら側ですよ」
  主人はそう言って笑い、奥さんも目を合わせず苦笑する。
          〇
  本書のページを開くと、少々疲れ気味の肝臓もなんのその、暖簾の
むこうに待つ至福のひとときを求めて、ついフラフラと「今宵も…」という
ことになってしまう。「危ない本」だ。巻頭のグラビアページの料理写真も
素晴らしい。鹿児島「たぬき」のキビナゴの刺身、大分「チョロ松」の
いわしの刺身、水戸「武ちゃん」の鮟肝……。(O.R)

(2001年・新潮文庫・514円+税)

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