本の紹介(No.37)
「暗雲に蒼空を見る 平生 釟三郎」(小川守正・上村多恵子著)
東京海上の専務を経て、川崎造船所(現川崎重工業)の社長、広田弘毅
内閣の文部大臣、日本製鉄社長などの職にあった平生釟三郎(ひらおはちさぶろう
/1866〜1945)の伝記である。
著者は、いずれも神戸市にある私立甲南学園の出身者。すなわち、小川守正は、
旧制甲南高等学校から九州帝国大学工学部に進み、松下住設機器(株)社長を
つとめ、甲南学園理事長をつとめた。
もう一人の著者上村多恵子は、旧制甲南高校の後身である甲南大学武文学部の
卒業生。家業である京南倉庫(株)社長をつとめるかたわら、日本ペンクラブ・日本
現代詩人会会員として、文学の分野でも活躍している。
本書は財界人・政界人としての平生釟三郎の人生をたどるとともに、甲南学園や
甲南病院の設立、そしてブラジル経済使節団長として7ヶ月にわたり滞在し、両国の
経済交流に尽くした平生釟三郎の生涯を描いている。そのために、著者に二人の
立場は最適といえよう。
著者の一人、小川守正は「あとがき」で次のように記している。
今から65年の昔、私が旧制甲南高等学校尋常科に入学して間もない頃、全校
生徒の健康診断で結核と診断され、開設間もない甲南病院に収容された。パスも
マイシンモなかった当時、九死に一生を得ての生還であった。
それは、拾芳会出身者の多かった医師の方々と、平生さんの強い方針で実現
した、当時珍しかった完全看護の行き届いた、清潔な環境のおかげであったと思う。
親切にして下さった岡病院長と副田看護婦さんなどは今でもはっきりと覚えている。
また、私の在学中の8年間は、日本が急速に軍国主義化していく暗い谷間の時代で
あったが、その中にあって、朝礼でたびたび聞かされた平生さんのお話(甲南関係者は
当時も今も、平生先生ではなく平生さんと呼んでいる)、「世界に通用する紳士たれ」、
また日本の軍部やヒットラーに対する歯に衣着せぬ批判、学内での共産党事件、軍部
教練批判事件の対処なども、今思えば、暗い谷間でも毅然たる巨大なリベラリストの
面目躍如たるものがあった。そして家庭と学生をこよなく愛した人、その人のそばに
私たちはいたのだった。
小川守正にとって平生釟三郎は「命の恩人」でもある訳である。
ここに出てくる「拾芳会」(しゅうほうかい)というのは、平生釟三郎が、経済的に
恵まれない若者たちのためにつくった私塾。塾生達は、平生家からそれぞれの学校に
通った。拾芳会OBの医師たちは、1931年設立の甲南病院の中心となり、平生が
となえた「病人のための病院」の理想の実現のために働いた。
保険の門外漢の手による本であるが、全四章のうち第二章は、東京海上時代の
平生釟三郎を描いている。帝国海上(現安田火災)などの後発会社から仕掛けられた
猛烈な競争。そこには「値引き・握らせ・接待」がとびかった。1894(明治27)年頃の
損保業界のことだ。
また、三井・三菱両財閥の確執から大正海上(現三井海上)が誕生する経緯も
記されている。ここでは詳しくは述べないが、その大正海上の専務を平生釟三郎は
兼務する。本書には言及されていないが、平生は扶桑海上の会長をつとめたことが
ある。日本の損害保険会社の中で”海上火災”を名乗る3つの会社に関わったという
わけである。
(1999年・PHP・1600円+税)