本の紹介(No.38)

「銀座 名バーテンダー物語」(伊藤精介著)


  1916(大正5)年生まれの古川緑郎さんは、午後5時きっかりにバー「クール」の
看板に明かりをともし開店する。古川さんがはじめてバーで仕事をはじめたのは
1929(昭和4)年のことである。銀座・交旬社ビルの前に<少年ボーイ募集――
サンスーシー>という看板が出ていて、父とともにバー「サンスーシー」を訪れ、
小柄で清楚なママ西川千代さんに採用された。古川さんは高等小学校の2年生、
満13歳になったばかりだった。以来70年にわたり、20世紀も終りに近くなった
近日まで、古川さんはバーで働きつづける。
  「私は戦後、<サンスーシー>から独立して、やはり同じ銀座で<クール>を
開いたんですが、振り返ってみれば昭和4年から60年間、銀座の酒場一筋に
生きてきたことになるわけです。銀座でいち早く店を持ったオーナー・バーテンダー
としては、私が最初だったんじゃないですか」(20ページ)と、古川さんは往時を
懐古する。ちなみに、本書が単行本として晶文社から発行されたのが1988年。
「クール」は今でも古川緑郎さんによって経営されているので、引用文中の
「60年」は「70年」になるということになる。
  本書は、古川緑郎さんの「バーテンダー一代記」をフリーエディター&ライターの
伊藤精介がとりまとめたもの。太平洋戦争をはさんだ古川さんのバーテンダー物語が
面白いことはもちろんであるが、ところどころの脱線がこれまた興味深い。
  古川さんが最初に勤めたバー「サンスーシー」。そのママ西川千代さんは、横浜の
フェリス女学院の初期の卒業生。ミッションスクールの出だけあって、英語・フランス語・
ドイツ語をこなす。お客がいないとき、カウンターの端で原書を読んでいた。そんな
古川さんの回想から、著者伊藤精介の好奇心はムクムクと頭をもたげ、西川ママ
(すでに故人)の生涯をトレースする。本書の「第三章フェリス女学院と西川ピアノ」は、
このような背景でできあがった「脱線記」である。
  本書134ページ以下にRAA(Recreation and Amusement Assosiation)という組織の
ことがでてくる。終戦後間もない頃つくられた米軍兵士のための慰安所である。RAAは、
日本語名では「特殊慰安施設協会」。「ダンサーおよび女事務員募集」の広告で若い
女性を集めた。古川さんも、RAAの事務の手伝いをやらされた。ここで著者は他の
資料でRAAについての補足情報を提供する。慰安施設をつくるための資金は、政府が
「内務省から大蔵省を通じて、日本勧業銀行が業者に貸し付ける形を取って、5000万円を
限度に業者の提出した手形を勧銀が割引く」という方法をとったということだ。
  さらにびっくりしたのは、この5000万円の貸付担保には「業界の戦時火災保険金
(当時凍結されていた特殊預金)」があてられたという(142ページ)。これ以上詳しいことは、
よく分からないが、戦争保険という制度が日本勧業銀行(現第一勧銀)を通じてRAAに
つながっていたということらしい。


(1999年・中公文庫・705円+税)

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