本の紹介(No.8)

木戸幸一日記」(東京大学出版会)

  この本は、終戦後に行われた極東国際軍事裁判所(いわゆる「東京裁判」)
において、重要な証拠物件の一つに取り上げられた。この日記によって、
A級戦犯の被告となった人の昭和5年以降の言動の一部が明るみに出たと
同時に積極的に戦争に関わったかどうかが問われる事となった。
この「木戸日記」には、当時の軍部が天皇陛下へどのように上奏し、天皇陛下は
どのように判断を下したか、天皇陛下にどのような情報が伝わったか、また
伝わらなかったか、など数々の出来事が記述されている。2・26事件における
天皇陛下の下した指示が叛乱軍にどのように伝わったか。太平洋戦争の
開戦決定における御前会議の様子。終戦を決定するまでの確執。一つの
物語として読んで行くと、この時代に起きている各種の事件がどのように
天皇陛下に伝えられたか、天皇陛下が判断したか、などが手に取るように
伝わってくる。
  この日記が書かれた期間は昭和5年1月1日から昭和20年12月15日である。
この年(昭和5年)は、1月に「ロンドン海軍軍縮会議」が開催、11月に浜口首相が
東京駅で狙撃された。この日記の始まりは、アメリカのナイヤガラに向かう列車の
中である。木戸は既に日本へ帰国しているが、ロンドン海軍軍縮会議、浜口
首相狙撃に関する記述は見当らない。この当時は、まだ商工省の役人だった
からだろう。
  昭和6年3月に三月事件、9月柳条溝事件(満州事変)が起きたが、昭和7年
1月には上海事変、3月満州国建国宣言、5月は五・一五事件と相次いで紛争が
起きた。
  五・一五事件の日記の5月15日から19日迄は、他の日に比べて多くの事柄が
記述されているのが分かる。特に15、16日の2日間は詳細を極めている。
この時は宮内省秘書官だったから、このような細かい情報が入ったのであろう。
昭和8年8月には秘書官長に任ぜられている。
  昭和8年3月8日の日記には、国際連盟脱退について記述している。実際に
脱退の告文を通達、政府声明を発表したのは3月27日である。日記には正式
発表になるまでのおよそ20日間にわたって、脱退について色々記述している。
  昭和10年2月天皇機関説問題化、8月相澤事件、昭和11年2月二・二六
事件が起き、7月日中戦争が始まっている。昭和11年2月2日の日記には、
相澤事件の影響、軍の動きなどが記述されている。二・二六事件での日記は、
26日から28日までの時間を追った人の動きが非常に細かく記述されている。
昭和天皇は、この事件に関して「速かに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復する迄
職務に励精すべし」と述べているという。叛乱兵は、国のため、天皇陛下の
ために行動を起こしたつもりだったのだが。もっとも、木戸が入手した情報と
最近出版された「検察秘録2・26事件匂坂資料」 (原 秀男・澤地久枝・ 匂坂哲郎編、
角川書店)
と比較すると木戸の情報もほんの一部でしかないことが判る。
  その後、本格的な戦争への準備が徐々に進む中、昭和16年12月8日
太平洋戦争に突入した。この戦争に突入する直前の日記ではどのように
記述されているのだろうか。昭和16年9月6日の日米開戦を公式決定したと
言われる御前会議、その後、この日記には日米交渉について政府高官、
軍部、近衛公が天皇陛下に拝謁している。特に開戦直前の11月29日に天皇は、
重臣(若槻、岡田、平沼、近衛、米内、広田、林、阿部)と懇談、意見聴取を
しており、その概要が記述されている。12月5日には、宣戦の詔勅について
討ち合わせている。東条首相が天皇陛下に開戦直前に会ったのが12月6日
である。アメリカ合衆国大統領より天皇陛下への親電をグルー大使が持参
したのは、12月8日午後12時40分である。以上のように天皇に仕える
最も近い側近である事から、人と情報の動きが事細かに判るのである。
  このような状況で戦争が続行されてきたが、昭和17年2月12日、東條首相が
天皇陛下に拝謁したときの様子が記述されている。天皇陛下は戦争の
終結について、終戦の機会を失わないよう充分考慮するよう話をしている。
  昭和19年7月18日東條内閣辞表提出。この日の日記は重臣の意見が
事細かに記述されている。昭和20年5月25日の空襲で宮城及び大宮御所が
罹災。6月22日天皇陛下は戦争の終結について木戸に話をされている。
7月19日チューリッヒ電報は日本が和平提案をしている旨放送している事を
記述している。7月27日ポツダムでの対日和平条件を入手している。8月9日
御前会議でポツダム宣言受諾を決定する。
  冒頭でも書いたとおり、この日記は東京裁判で極めて重要は役割を果たして
いる。記述している事がリアルであり、具体的に書かれており、内容が理解出来る
ように表現されている。第三者が見ても、誰が、どこで、どのような事を、言って
いるのか歴然としているからである。日記を書くときに第三者に見られることを
前提に書かれたものでない事は、記述の内容から、ある程度読み取れると考え
られる。
(M.D)

(1966年・東京大学出版会)

前のページに戻る