本の紹介(No.17)

論文総覧日本の博士研究」(門田重雄編)

  本書は、今から73年前に啓明社から発行されたものである。戦前の
立身出世の標語として”末は博士か大臣か”
と言われていた。この標語は、
現代の社会情勢では馴染みのない”死語”の一つとなっている。
  ”博士”という称号が正式に認められたのが、明治20年5月20日勅令
第13号「学位令」
(旧学位令)による。旧学位令により最初に授与されたのが
明治21年5月7日で、5つの方法による”博士”が誕生することとなった。
  1.評議会推薦
(明治20年勅令第13号第3条によるもの)
  2.博士会推薦
  3.大学総長推薦
  4.論文審査
  5.大学院卒業
  当初上記の方法で5月7日に誕生することとなった”博士”の数は25人で
あった。”博士”の種類は、法学、医学、工学、文学、理学の5つで、その後、
薬学、農学、林学、獣医学が順次追加され、全部で9つの”博士”となった。
因みに、第1回目に誕生した”博士”は上記2〜5は該当者がなく、全員
”1.評議会推薦”による”博士”であった。
  ところで、医者「森林太郎」は、明治24年8月に評議会推薦により
”医学博士”を授与され、明治40年11月に軍医の最高位である陸軍軍医
総監・陸軍省医務局長となるが、文学者「森鴎外」は、18年後の明治42年
7月に博士会推薦により”文学博士”を授与されている。
  また、明治44年2月に博士会推薦により元文科大学講師「夏目金之助」に
”文学博士”の授与を決定したが、これに対し文学者「夏目漱石」は、
”文学博士”の授与を辞退している。ただし、本書では、授与者の中に
「夏目金之助」の名前が列記されている。
  ”5.大学院卒業”に該当する第1号の博士は、明治32年3月
(本書では31年3月)
に”文学博士”を授与された”松本亦太郎”と”松本文三郎”の2名と”林学博士”を
授与された”河合鋪太郎”の計3名であった。松本文三郎博士は、4月に第一高等
学校教授に任ぜられた。7年後の明治39年7月両松本博士は、京都帝国大学
文科大学教授に任ぜられた。松本亦太郎博士はその後、美術審査委員会委員、
文展審査委員会委員、帰一協会委員などを歴任した。一方、>河合鋪太郎博士の
名を記述されたものがほとんど見当らない。>
  その後、明治31年勅令第344号により改正され従来行っていた”推薦”は
なくなり、大学において論文審査する事が条件となった。大正9年には大幅な
改正が行われ勅令第200号により「学位令」(新学位令)が公布された。
明治31年に改正されてから新学位令が公布されるまでに23年が経過していた。
  大正9年改正後の大正11年3月現在の”博士”の総数は1,715名、昭和2年は
3,432名と大幅に増加した。内訳は次の通りである。

      大正11年  昭和2年      大正11年  昭和2年
  法学  177名    183名   理学  152名    214名
  医学  744名   2,215名   農学  105名    155名
  薬学   28名     41名   林学   33名     39名
  工学  327名    389名   獣医学  22名     22名
  文学  126名    160名   商学    1名     4名
                     経済学   ー       9名
                      政治学   ー      1名
  [出典  大正11年分は「時事年鑑
(大正12年)」より、昭和2年分は本書より]

  なお、昭和2年当時、”博士”を授与できる大学は全国で5つの帝国大学、
10の医科大学、を含む24大学に過ぎなかった。
  本書には、以上のほかに、”博士”授与の対象となった論文の題目及び
学位授与大学名が明記されている。
(池田)

(門田重雄著・昭和2年・啓明社)

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