本の紹介(No.27)
「週報」(第40号〜第45号 昭和12年7月21日〜8月25日)
(影印版、昭和62年7月、野上出版(株))
この本は、昭和12年7月から8月に掛けて発行された政府広報誌の
影印版である。「週報」は、昭和11年10月に情報委員会の編輯で創刊された。
「週報」に書かれている”刊行の趣旨”をそのまま紹介したい。
政府の行はうとする政策の内容や意図を広く一般国民に伝へて
其の正しい理解を求め、公正な世論の声を聞き、又法令の趣旨や
内容の普及を図り、其の他政府の各種機関に依って得られる
内外の情勢、経済学術技芸等に関する資料を公表して、政府と
一般国民との接触を緊密にし公明な政治の遂行に寄与しようと
するものである。(旧漢字は新漢字に置換えました。)
この文章から、太平洋戦争開始の4年余り前においては、政府、軍部、
外務省による国民への情報公開の姿勢は、積極的に行おうとしているもので
あるように見受けられる。
内容に入る前に、表紙を捲った所に次の様な広告がある。
東亜の平和
挙国一致
北支の明朗化
東亜の平和のために
裏表紙の内側には
銃後を護れ
挙国一致
次の頁の目次を見ると、上記の訴えるところが見えてくる。
派兵に関する政府声明
北支派兵に至る経緯
軍機保護の必要性
最近に於ける第二十九軍の不法事件
(以下省略)
上記の”派兵に関する政府声明”の冒頭の文章を紹介しよう。
相踵(つ)ぐ支那側の侮(ぶ)日行為に対し支那駐屯(ちゅうとん)軍は
隠忍静観(いんにんせいかん)中の處、従来我と提携(ていけい)して北支の
治安に任じありし第29軍の、7月7日蘆溝橋(ろこうきょう)附近に於ける
不法射撃に端を発し、該軍(がいぐん)と衝突の已むなきに至れり、云々
ここでは、後の太平洋戦争に繋がる事件、”蘆溝橋事件”が起きた
のである。その蘆溝橋事件を政府が正統化したことを、ここで報じている。
この事件は現在では、日本軍が自作自演を行ったうえ、当時の支那軍に
対して戦闘を仕掛けたことが判っている。次の項目である”北支派兵に至る
経緯”(陸軍省新聞斑)の冒頭の文章を紹介しよう。
昭和12年7月7日夜我が支那駐屯(ちゅうとん)軍に属する豊台駐屯
部隊の一部が、蘆溝橋(ろこうきょう)(北平西南約3里)の北方地区で
夜間演習実施中、午後11時40分頃蘆溝橋の支那兵から突如数十発
の射撃を受けたので、同部隊は直ちに演習を中止して部隊を終結
すると共に之を監視し、此の旨上司に急報した。云々
陸軍省が発表していることと政府が発表していることが、全く同じで
あるのは当然のことである。政府発表は全て陸軍省のデータをそのまま
鵜呑みにしていたからである。事件2日後の9日、”蘆溝橋事件撤兵協定”が
成立したが翌日の10日再び軍事衝突。更に2日後の11日蘆溝橋事件
現地協定”が成立。16日にアメリカ国務長官ハルは、武力不行使、内政
不干渉、条約遵守等を声明した。(以上「日本外交史」(鹿島研究所出版会)より)
この後、日本・中国との間に外交上のやり取りが行われている。アメリカ、
イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、ギリシャなどが絡んで日本の孤立観が
窺える。8月には、アメリカグルー大使が日華間の紛争解決に関する
アメリカの周旋を非公式に申出ているが、日本の軍事攻撃は止んでいない。
国際連盟でも日本に対する軍事攻撃への非難が決議採択された。
”国民心身鍛錬運動”という記事が出ている。”国民体位の向上と国民
精神の練磨を計る目的”をもってこの運動を政府総掛かりのもとに興す
ことになったと言っている。ここではどのような方法を推進しているだろうか。
それは、一般人にはラジオ体操、登山、遠足、水泳など、学生には、武道
鍛錬、運動、実習、見学、旅行などを挙げている。この時点では、まだ開戦前
であるため鉄道等の交通機関は比較的自由に利用できた。鉄道については
この制度を利用すると運賃の割り引きが適用された。また、”ラジオ体操”に
ついては、本書でも図解入りで紹介している。
”暴利取締令の改正”では、日中戦争(本書では”支那事変”)が進展
するに従って、徐々にではあるが物資が不足してきた。この様な情勢に
乗じて、”各種不穏当の手段によって、暴利を得”ようとしたものが、出て
きたようである。これを取締る為、法改正により”国民経済上よりみて重要と
認められる物品”26種類について”買占め又は売惜しみと、暴利を得て為す
販売”を取締る法令を改正することとした。これにより、いわゆる”闇”、”裏”
取引がなくなったわけではなく、軍権力、政治権力、行政権力、社会的地位、
など高権力を握っている多くの人々が、”闇”あるいは”裏”取引による物品の
横流しに手を染めていった。
以上のように、短期間ではあるが、「週報」で発表される中国大陸に
関する軍事情報は、軍部との連携により成り立っていたことがわかる。また、
昭和12年という時期から、軍事以外の記事はほとんど見当たらない。
本書の最終頁に、”週報第63号附録”として、”週報昭和12年自第38号至
第63号総目録”が紹介されている。この総目録を見ても、軍事関係の記事が
半数以上を占めていることがわかる。(池田)
(昭和62年7月、野上出版)