本の紹介(No.28)
「矢車」(明治42年6月第3号〜明治43年12月第21号)
(発行者 森井嘉十郎)
この本は、今から凡そ98年前の明治42年に創刊された川柳雑誌である。
川柳雑誌は主に地方単位で発行されるものが多く、本書も東京を中心に
同好の志の投稿により成り立っていたが、投稿する人は当然全国的に散在
していた。
もちろん中心的に活動するものが必ずいなければ雑誌を継続的に発行する
ことは出来ない。この雑誌では”阪井久良岐”、”緒方松寿園”、”中島紫痴郎”、
”愛染明王”、”鈴木白馬”、”川上日車”、”井上劔花坊”など7〜8人が中心に
なって本誌を支えている。発行部数は不明であるが、1冊当りの単価が郵送料
込みで5銭という価格であった。この時代に、”たいやき”1個の値段が1銭、
山手線・私鉄の鉄道運賃が5銭あったことから、本書の値段はそれほど高くは
なかったと言える。
本書に現れる川柳の内容は、明治の末になったとはいえ相当部分において、
江戸時代の名残が見受けられる。
結び目をたゝいて羽織着せかける
炭俵かついで運ぶものでなし
福引で当った帯を里へやり
峠茶屋汗をふきふき瓜をむき
茶屋女空気草履は慮外なり
大道で一芸済むと品を売り
一段を上げて芸者を買って見る
もちろん、明治時代そのものの川柳もある。
タイムスを置き去りにする一等車
百旦那其ナフキンで鼻をかみ
マガレット学友会の幹事にて
本誌では”小島六里坊”の死を伝えている。当時”川柳の天才”と名指し
されていたようだ。亡くなった時は、弱冠22歳であった。
”募集川柳”の議題に”女優”というのがある。この雑誌が発行されていた
時代は、どのような時代だっただろうか。明治34年に20世紀に入った訳であるが、
外国では1898年(明治31年)にキューリー夫妻がラジウム、ポロニウムを発見
している。日本では岡倉天心が東京美術学校を辞職し日本美術院を創立した。
明治33年徳富蘆花が”思出の記”、”自然と人生”を発表、明治35年与謝野晶子と
鉄幹が結婚し、晶子が”みだれ髪”を、明治39年島崎藤村が”破戒”、国木田独歩が
”運命”を、明治40年泉鏡花が”婦系図”を、明治41年永井荷風が”あめりか物語”、
夏目漱石が”三四郎”を、明治42年森鴎外が”ヰタ・セクスアリス”を、夫々発表し、
そして明治43年雑誌”三田文学”、”白樺”が夫々刊行されている。この様な時代の
流れの中で、川柳から見た世の中とは
議題 ”女優”
遠縁の娘女優になると言ふ
秀才で出て女優とは何事ぞ
玉の輿一割高く女優乗り
議題 ”哲学者”
哲学者真理を見ずに夭折し
哲学者おつげの様な口をきゝ
議題”女性”
母親が道楽者にして仕舞ひ
自転車に乗れて巾きく目白台
男にはこりて独身主義となり
議題 ”運”
東京へ連れられて出て不運なり
運命を知ってレールに横はり
議題 ”看護”
許嫁看護が過ぎて床につき
御臨終ですと看護婦泣きもせず
議題 ”夢”
夢さめてまた凡人となりにけり
五十年我も慮生の夢なるか
洋画家の夢は巴里のサロンにて
議題 “死”
長老の眠るが如く逝きにけり
以上の新川柳は、ほんの一部であるが、日露戦争が終結して4年たち、
ようやく平和な時代が訪れようとしていた一時(ひととき)である。過去を
顧みれば明治時代の初めの3分の1が江戸時代の名残を見せた時代であり、
残りの3分の2が日本の近代国家建設に進んでいった時代であった。上記の
議題”夢”にも長閑な一面が伺える。(池田)
(編輯兼発行者 森井嘉十郎、明治42年、矢車発行所)