本の紹介(No.29)

日本政治裁判史録」(明治・前、明治・後)

  この本は、昭和40年代に明治・大正・昭和の各時代に起こった政治裁判に
関する史料を集録したものである。内容としては、事件毎に事件の起きた
背景・経緯、裁判の経過、第一審判決から最終審までの判決結果と判決文が
記載されている。本書の、明治編では、新政府の顛覆を企てた雲井龍雄の
裁判、佐賀の乱の首謀者の裁判、西南戦争の降伏者の裁判、大津事件の
裁判、など刑事訴訟法がまだ整備されていない時代の裁判の様子も窺う事が
出来る。
  本書には、上記以外に明治時代の多くの知られた裁判について詳しく記述
されているので、改めて紐解いてみるのもいいのではなかろうか。
  さて、本書には、いわゆる”暗殺”あるいは”暗殺未遂”が10件以上紹介
されている。また、”戦争”あるいは”騒動(騒擾)”がやはり多く紹介されている。
政治・経済・社会など国全体が幕藩政治から議会政治に移行して間もない、
不安定な時代であったことに大きな原因があったとみられる。
  ここで、代表的な事件のいくつかを紹介しよう。まず、”暗殺”あるいは”暗殺
未遂”の代表を2件、”戦争”あるいは”騒動(騒擾)”の代表を2件、”国際問題”
に発展した事件として2件、の以上6件を紹介する。
 1.広沢真臣暗殺事件
  この事件は、明治新政府になってから政府高官が襲撃された3件目の
事件である。広沢真臣は、明治新政府樹立時の参議として西郷隆盛と並ぶ
重臣の一人であった。
  事件は、明治4年1月9日長州藩出身、参議広沢真臣が東京の私邸で刺殺
された。広沢参議が刺殺された翌日に、”諸門の警戒益厳重”と太政官日誌で
布告している。明治新政府の治安が未だ不安定であった事を伺わせる。
  事件の特色は、第1に、事件発生から9年経過した明治13年3月までに
犯人が判明しなかったこと、第2に、この裁判で、参座制すなわち”陪審制”が
試行されたこと、である。
  第1の犯人についてであるが、「熊本藩探索書控」によると、20名近くが
捕縛され、その外熊本藩士、山口藩士、静岡藩士、など40名を越える容疑者
の探索が京都府に指令された。
  第2の、”陪審制”であるが、中検事橋口兼三から”参座”が建議され、
司法省で検討の結果、”参座規則”を制定し裁判を行うこととなり、”参座”として
政府から12名が任命された。この裁判では、容疑者全てに付いて犯人として
確定することが出来ず無罪となった。
 2.大津事件
  この事件は、外国人貴賓への傷害事件として最も有名になったことで、
多くの出版物が出ている。
  ロシア皇太子が大津市で襲撃された事件が発生したとき、直ちに新聞社
からは号外が出された。また、新聞にも事故の様子が報じられた。事件に対し、
宮内省からは北白川能久親王が海軍軍医監高木兼寛侍医局長、侍医池田
謙齋及び宮内省官吏数人と共に東京から汽車で見舞いに掛けつけている。
勿論、明治天皇もこの後、臨時の汽車を見たてて見舞いに行っている。
  事件の経過、背景については省略させて頂く事として、まず司法的処理を
する必要が生じた。滋賀県警察から大津地方裁判所へ移された犯人に対し
訊問や検証が行われた。予審判事、検察官共に事件の重要性から直接指揮に
当っている。政府に対しては、沖志賀県知事から内務大臣西郷従道宛に電報
により行われている。
  事件後、御前会議、緊急閣議が相次いで開かれた結果、犯人津田三蔵に
対しては刑法第116条の”皇室に対する罪”を拡張解釈して”死刑”とすべきで
あるとの結論が出された。この結果を踏まえて松方首相、農商務相陸奥宗光は
裁判機関に対して”皇室に対する罪”を適用するよう働きかけた。
  これに対して司法省では、刑法第116条を適用する事は不可であるとの
意見が大勢を占めていた。司法省法律顧問パテルノストロウ(イタリア人)及び
検事総長三好退蔵は刑法第292条第2項以外にないとの意見であった。
  政府の考えと司法当局の考えに大きな相違が生じていたが、児島
大審院長は”裁判権の独立”を主張し、行政官による意見に左右されない、
との意見を通した。
  この事件により、”裁判権の独立”が確立された事は周知の通りである。
 3.竹橋騒動
  この事件は、明治11年8月23日近衛砲兵第一大隊の兵卒260余名が
給料の減額や西南戦争の論功行賞の遅延などを理由として反乱を起こし、
隊長宇都宮少佐、大隊週番深沢大尉を殺害、参議大蔵卿大隈重信邸に
発砲
(供述によれば、蹶起を告げる号砲として打った、としている)、天皇に直訴しようと
して山砲一門を擁して赤坂仮皇居に行進し到着したが、結局武器を捨てて
捕縛された。
  なお、当局は当日の事件勃発を予知していたため、仮皇居及び半蔵門
には、既に巡査500余名が警備に当っていた。
  竹橋騒動から50日目の明治11年10月12日陸軍卿山県有朋は”軍人
訓誡”という訓示を印刷配布した。
このように、この事件は、徴兵制下の
軍隊における軍紀統制・秩序維持対策の必要性を軍当局に痛感させ、
その後の”軍人訓誡”、”軍人勅諭”の制定に大きな影響を与えることと
なった。
  この騒動による処分は、死刑53名、准流刑118名、徒刑68名、戒役15名、
杖及び錮1名、錮4名、合計259名であった。
(「明治11年公文録陸軍省之部二」より)
下士官及び将校に対する責任も追及され、明治11年10月14日、下士官
30名に対し閉門又は錮に処する旨の”申渡”をした。また近衛砲兵大隊
第2小隊長も裁判により”回籍終身武官大小ノ員ニ補スルヲ禁止”する旨の
”申渡”をうけ、将校5名も降官又は閉門の”申渡”をうけた。、
  この事件では、事件発生後、直ちに号外が発行され、事件の詳細も
3日後の26日には東京曙新聞で報じられている。また東京日日新聞では
騒動の原因が即日報じられる早さだった。
 4.山口藩兵隊騒擾事件 ―藩制解体過程の反乱に対する処断―
  明治3年2月、山口藩
(長州藩・萩藩・毛利藩ともいう)で常備軍を解かれた
千数百名の旧藩兵らが、徒党を組んで藩政府に武力で反抗し、藩政の
改革を迫った。彼らは山口藩兵によって鎮圧され、首謀者らは藩の裁判で
処刑された。この事件は引続き九州を中心に企てられた大規模な反政府
運動の先導をなした意味で注目される。
(本書概要より)
  この事件は、旧幕府から明治新政府に移行する過程で、新政府の推し
進める”御親兵”の運用方法の失敗により起こった。それは、
   第一に、藩当局によって行われた藩兵に対する維新戦争の論功
     行賞が、門閥に囚われた封建的色彩が強く、各隊の上官級から
     先に始められた。藩兵には士族以外の農兵が多く参加しており、
     藩政に参画する地位が約束され、特権意識を持っていた。旧幕府
     時代の封建的色彩での論功行賞に強い不満を抱いていた。
   第二に、上官から始められた論功行賞が下士まで行き渡らないうちに
     各隊の解散が指令された。更に、解散されたまま常備軍に編入
     されない多くの隊士たちが失業の危機にさらされた。
   第三
に、藩が財政に逼迫していたため除隊される隊士らの失業対策に
     充分な措置を講じなかった。また、新しい常備軍の軍律が政府の
     指令に基づく極めて厳しく、藩兵らには編入を嫌ったものが多かった。
  2月12日脱徒隊の反乱が鎮圧されると、藩政府は直ちに、その巨魁と
見られる35名を揚屋に入れ、連累者49人に謹慎を命じた。巨魁とされた
35名は全員死罪、それ以外で主だった犯徒20人は罪の軽重に従い、流罪
及び禁錮刑とされた。巨魁以外の隊卒ら千余名はいずれも放免されている。
 5.マリア・ルズ号事件
  この事件は、明治5年6月、横浜に入港したペルー国汽船マリア・ルズ号に
起こった清国人船客に対する虐待行為について、日本政府は未締約国人に
関わる事件として裁判した。
  ペルー政府は、裁判管轄権が日本にないため裁判は無効であると抗議
したが、裁判管轄権は日本に帰属するとの仲裁裁判所での判決が下された。
この裁判で未締約国人裁判に列国領事の立会いを必要とする慣行を排除する
措置に成功したのである。
  神奈川県特設裁判所は次のことが問題となっていたが、”吟味目安書”
により判決を下した。
  @ 各国領事による意見を聴取しないまま”吟味目安書”を神奈川県特設
   裁判所が提示した事、
  A マリア・ルズ号船長ヘレイラが裁判管轄権が日本にないことを主張
   した事、
  B イギリス領事だけが裁判所の判決を支持した事、
  判決により、船長ヘレイラは、神奈川県庁に保護されている清国人船客を
連れ帰る為、引渡しを要求したが、これを拒否した。船長はこれを不服として
清国人231名を相手どって、移民契約履行請求の訴訟を起こした。
  日本では、この移民契約書は人身売買(奴隷売買)の性格が濃いとみて
いた。
  裁判としては、この後、最終的な結論が出されたが、判決内容は”吟味
目安書”の通りであった。裁判終結後、ペルー政府は、当初の主張を日本
政府に行ってきたため、アメリカ政府の勧告により仲裁裁判をロシアで行う
事となった。結果としては、日本の行った裁判結果は翻る事はなかった。
 6.ノルマントン号事件 ―隔靴掻痒の領事裁判―
  明治19年10月24日、イギリス汽船ノルマントン号が紀州沖熊野灘で
難破した。西洋人乗組員は大部分救助されたが、日本人乗客25名は救助
されないまま全員溺死した。この事件を審理した神戸駐在イギリス領事館
海事審判所は、イギリス人船長ドレイクの措置に全く過失を認めなかった。
このため日本政府は殺人罪をもって同船長を神戸駐在イギリス領事館に
告発した。裁判結果は、有罪であったが職務怠慢の罪による3ヶ月の禁錮刑
であった。
  この事故については、10月30日付の”内外新報”が地図を示して解説
している。難破した原因等は不明である。
  @ 日本人は乗客として乗っていたが、この船は客船としての免許を
   持っていなかった。
  A また、船長は船客に対して乗船に際して注意すべき事項を何も
   伝えていなかった。水夫らも船客の取扱いについて船長から何も
   指示を受けていなかった。
  B 遭難用の救命ボート一艘が破損していたが修理しないまま放置
   されていた。(もし、このボートが使用できたとしたら、乗組員、船客
   全員がボートに乗れていた)
  C 船員によれば、日本人の船客の中に英語を理解できる者が
   いなかった。
  この事故の裁判は刑事裁判ではなく、あくまで海事審判で行われた。
また、裁判は横浜領事裁判所が行うため、日本側は傍聴人として3名が
臨席しただけだった。船長に対して検事は、”怠務殺人罪”で起訴したが、
船長は無罪を主張した。しかし、ノルマントン号乗組員の証人達は、いずれも
船長の取った措置について積極的に怠務殺人罪の理由となるような証言を
行っていない。陪審員は有罪の認定を下したが、情状酌量を希望した。
この判定に基づいて裁判長は船長に3ヶ月の禁錮刑を言い渡した。
  検事側が主張した問題点をほとんど取上げていないのは、領事裁判の
ため被告に有利な裁量が行われた事を示していると言えよう。
  この事故をきっかけに、遭難死した日本人乗客に対する義捐金募集が
時事新報社、報知社
(郵便報知新聞)、朝野新聞社、毎日新聞社、日報社
(東京日日新聞)の5社共同提唱で行われ、11月13日、14日のそれぞれの
新聞に広告を載せた。義捐金の募金総額は、17,800円
(うち、700円は東京の
五大新聞社の募金)に達した。死者一人当り737円余りとなった。この時代の
700円余りは大変な金額であったことが、当時の地価及び教員の給料で
想像できる。ちなみに明治20年の東京・銀座”三愛”附近の一坪の実売
価格は、50円、明治19年の小学校教員の初任給は5円であった。
(新聞社の広告については藤田幸男著、「新聞広告史百話」(新泉社)からの引用) (池田)

(編修代表 我妻 栄・昭和43年・第一法規)

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