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本の紹介(No.30)
「郷土研究
上方
」(復刻版)
この本は、今から70年前の昭和6年1月から昭和19年4月までの、およそ
13年間にわたって発行された、上方(奈良・京都・大阪)を研究するため雑誌
である。手元にあるのは、昭和44年に復刻版として新和出版(株)から発行
されたものである。
”上方文化”は、歴史的な観点からは日本文化の中心点として位置付ける
ことが出来る。編輯発行者の南木芳太郎氏は、創刊号の”あいさつ”のなかで、
”上方は文化の発祥地である…”と言っているように、”上方文化”ではなく
”日本文化”と位置付けているようだ。
また、商業都市としての”上方”は、”商い”という独特の商業文化が極めて
強く発達した姿である。現在でいう、販売管理、在庫管理、品質管理、人事管理、
財務管理、金融、流通、交通など、経営管理の全てのノウハウを蓄積している
のが上方である。これらのノウハウは、当時のヨーロッパ諸国の商いの制度と
比較しても遜色のないほど整ったものであり、高度な文化であったと言えよう。
”上方”のもう一つ強調できる点は、文学・文芸であろう。江戸時代が生んだ
井原西鶴、近松門左衛門の2人は、上方を代表する作家・文芸家である。
今回は、第1巻の中から、1年分について紹介してみよう。この雑誌の
”創刊号”の目次を見ると、非常に文芸色の濃い項目がほとんどである。
”大阪に遺れる名木老樹”では、大阪の都会化により無くなりつつある名木老樹
について、その所在を明らかにしている。高さが最も高い木は、北区中野町の
銀杏が47間、1間=1.8メートルとして、およそ85メートルであるという。現在はどう
なっているのだろうか。”彌次喜太と大阪鮨”では、江戸のにぎり鮨と大阪の筥鮨、
京の鯖鮨について、当時の小説に現れた鮨が存在したかどうかを検証している。
慶応3年に起きた”大阪に於ける御蔭騒動”について記録と故老の実見談として
詳しく紹介している。この件については、最近の書物でも「ええじゃないか
民衆運動の
系譜
」
(西垣晴次著、新人物往来社)
に詳しく説明されているので、参照されたい。
第2号もこの傾向は全く変わっていない。この号では”京都の節分”が面白い。
ここでは、この記事が書かれた昭和初期に、古くから残っている伝統を紹介して
いる。”結婚と移転”
(厄年や吉日を得られない人が、結婚や引越しを節分の日にする慣わし)
、
”吉田神社詣り”、”四方詣り”
(四方とは、吉田神社、北野神社、稲荷神社、壬生寺)
、
”花柳界とお化”、”壬生寺”、”宝船”、”五條天使社”、”六地蔵詣り”、”厄払ひ”の
項目があげられている。”明治の大阪風俗史”の”漫談大阪が生んだ東西屋”
(花月亭九里丸著)
で”チンドンヤ”が”東西屋”又は”廣目屋”と言われていた明治
時代の図が紹介されている。”東西屋”の元祖が花月亭九里丸の父であること、
この初代九里丸がいわゆる”チンドンヤ”を新しい試みで色々工夫して全国へ
名を馳せたこと、”東西屋”の商売のやり方が全国へ広がった事、など、
”チンドンヤ”が、どの様に広まっていったかが判りやすく書かれている。
第3号で早速”天王寺研究号”を特集している。大阪と天王寺は切っても
切れない関係である。ここでは、天王寺に関するあらゆる事柄が記述されており、
”天王寺一色”の感がある。”四天王寺縁起考”
(四天王寺教学部長 出口常順)
による
建立の由来は、”四天王寺御手印縁起”に記述されているところによる。全文を
原文で読みたい方は「四天王寺古文書
(第一巻)
」
(清文堂史料叢書第78刊)
の始めに
書かれているので、参照してほしい。この他にも、第一巻には”天王寺秘決”、
”秋野家伝証文留”、”御條目御達書写”、など四天王寺に関する古文書各種が
紹介されている。また、天王寺に関しては「塩尻」
(天野信景著)
、「卯花園漫録」
(石上宣続著)
、「一話一言」
(大田南畝著)
、など江戸時代に書かれた随筆等の書物にも
多く記述されている。大阪四天王寺といえば”庚申堂”が知られている。
上方言葉では”コオシンサン
(庚申様)
”と言うらしい。
(「大阪ことば事典」より)
日本三庚申の一つである。江戸時代の随筆「京童跡追」、「守貞漫稿」、
「難波鏡」、など多くに紹介されている。
第4号では附録として明治9年発行”御布令之譯
(おふれのわけ)
”というのが
付いている。これは”各地方違式けい違條例”というのが明治6年7月に布告
されたが、これを図解解説したものを附録としたのである。條令90ヶ条のうち
抜粋して45ヶ条分を一表にしている。この後半部分が発行された形跡がない。
(小生の見落としかも)
江戸時代には当然?行われていた事が、明治文明開化
により日本国民として相応しくない行為
(現在では一般人から見て非常識な行為)
について
解説している。現在でも通用するものがいくつかあるのは面白い。
第5号では、”上方への注文書”という一項目がある。主として東京方面の
29名の学者、作家などの著名人によるご意見である。自分の専門家としての
意見が多く見られる。
第6号は”橋と川”を小特集している。このなかで大阪は”水の都”で橋が多い
事を紹介している。”高津の川と橋”では、”高麗橋”、”四ツ橋”、”安治川橋”、
”八軒家”の浜について、江戸時代から昭和初期までの変遷を図入りで紹介して
いる。明治45年に発行された「日本写真帖」
(ともゑ商会)
の大阪湾の写真を見ると、
水際に建つ明治の西洋風建築物が多く見られる。
第7号は”夏祭号”を特集している。目次の上段には、各町の提灯の絵が
描かれている。この号では、大阪以外の京都、堺のお祭も紹介している。また、
”大阪神社夏祭便覧”に各神社毎の行事の日と内容を詳細に紹介している。
”住吉神社”が9社、”八阪神社”が6社、”天満宮”が6社、のように同じ名前の
神社が見うけられた。この号では”天神祭之諸相”として、”沿革”、”前儀
「鉾流神事」”、”地車の宮入”、”渡御路線の変遷”、”催太鼓”、”天神祭と橋梁”、
”渡御船列”、”別火船と献茶船”、”水上の諸祭儀”、”御迎人形”、”篝”、”天神祭
と消費経済”というように、江戸時代からの祭の様子を紹介している。
第8号は”西鶴記念号”を特集している。井原西鶴は江戸前期の浮世絵草紙
作家・俳人で大阪の富裕な町人の家に生まれ、西山宗因に師事し談林派俳諧の
最前衛で活躍した人である。
(「角川日本史辞典」より)
この号にある宇和島市久保貢氏
の所有する芳賀一晶筆の西鶴の肖像画は、「戯曲小説近世作家大観」
(中文館書店、
昭和8年)
の井原西鶴の項目においても、最も信頼できる肖像画であると記している。
第9号の中に”江戸の百鬼夜狂と上方の百鬼夜興”と言う項目がある。ここに
出てくる題名百首を見てみると、いわゆる”怪談話”に現れるテーマが多く見うけられ
非常に面白いものがある。勿論現在では理解できないものもある。
第10号は”千日前今昔号”を特集している。特集写真の中に明治時代に建築
された千日前楽天地の建物が見える。
”千日前覚え帳”
(高橋好劇手記、上田長太郎補綴)
は、
前篇
歓楽境以前
@旧幕時代の千日前、A刑場としての千日前、B獄門と引廻しの作法、
C墓地としての千日前、D葬儀の格式、
中篇
歌舞伎と千日前
@梅野由兵衛と三勝半七、A文七、かしく、団十郎
後編
歓楽地草創時代
@草分けの人々、A見世物の出現、B当時の人気者、C文明開化の
見世物、D火事又火事、Eヘラヘラと二十加
”五十年前の千日前”、”三十年前の千日前”、”二十年前の千日前活動写真”
(船木茂兵衛)
などは、勿論昭和6年から数えての事である。
第11号は”大阪城研究号”を特集している。豊臣秀吉の築城した大阪城は
全城完成までに3年半を要した。大阪城に関する書籍は数多く出されているので、
ここでは一般的な記事の紹介は省略させて頂くこととする。この号の大阪城の
写真2枚(1枚は”大阪陣屏風下畫”、1枚は”新天守閣”)を較べてみると相当
異なっていることがわかる。
第12号では12月という事で”赤穂義士”関係の記事を掲載している。
なお、以降に付いては特集号のタイトルのみ紹介することとする。第13号は
”上方歌舞伎号”、第14号は”大阪町人号”、第16号は”上方俳星号”第20号は
”上方盆踊号”、第22号は”道頓堀変遷号”、第25号は”大阪明治文化号”、
第26号は”続大阪明治文化号”、第28号は”上方遊郭号”、第29号は”上方郊外号”、
第33号は”上方怪談号”、第35号は”大阪商工発達号”、など意欲的に特集号を
組んでいる。
この雑誌の全てを読むことは、大変な労力と時間を必要とするため早急には
出来ないが、徐々に読み進めていきたいと思う。(池田)
(上方郷土研究会、昭和6年〜昭和19年、創元社)
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