本の紹介(No.33)

「松陰本山彦一翁遺稿」


  この本は、今から64年前の昭和12年12月に発行されたものである。
本書の内容は、次の目次で紹介する。
  第壱篇 思想
  第弐篇 論文その他
  第参篇 紀行文・随筆
  第四篇 日記
  第五篇 書翰
  第六篇 詞藻
  附  録 講演・訓話
  以上の、六篇と附録で構成されている。本山彦一の略歴を簡単に紹介
する。嘉永6年熊本藩で生まれる。上京し箕作秋坪・福沢諭吉らに学ぶ。
兵庫県学務課長兼勧業課長・神戸師範学校長歴任後、明治15年”大阪新報”
入社、明治14年〜17年”時事新報”で編集。明治17年藤田組支配人として
児島湾干拓、山陽・南海鉄道建設事業に従事、明治19年”大阪毎日新聞”
発刊、明治24年社長。明治32年”東京日日新聞”を買収し、東京に進出、
”毎日新聞”を全国紙へ発展させた。貴族院議員。昭和7年没。
  本書は、新聞人として、財界人として、学校人として、活躍したその一遍を
表したものである。
  ”第壱篇 思想”のはじめに、”皇太子殿下に謁を賜はりて”
(大正10年)
ある。ここで言う”皇太子殿下”とは昭和天皇の事である。この年、皇太子
殿下は欧州に外遊され各国の元首を訪問した。帰国後、新聞社・通信社の
代表者たちを高輪御所に招いて皇太子殿下自身が帰国の挨拶を行ったが、
そのときの感想文である。大正10年は著者68歳のときである。
  ”第弐篇 論文その他”に”条約改正論”
(明治10年)という論文がある。
ここでは、@条約ノ改正、A独立国対等権、B裁判権、C収税権、D条約
改正ノ是非曲直ヲ世界ノ公議ニ質ス、の5つの項目をあげている。日本が
独立国として一人前の行動をするための基本的な項目である。幕藩国家
から世界の中の近代国家へ仲間入りするためには外国との条約を改正する
必要があった。
  ”支那饑饉論”
(明治12年)では、当時の中国北部において飢饉が発生し、
その惨状が言うに忍びない程、厳しいものである。この惨状に対し各国が
ただ救護するのではなく、原因を究明すべきである。原因として山林の伐採、
人口の急増による食物欠乏、がある。これらは輸送するための道路、運河の
整備をする必要があるが、特に海運をもっと活用すべきである。また、人民が
流民となって移動することが問題である。広い大地に於ける国としての纏まった
政策がないために起きたと考えられる。西欧諸国の帝国主義政策は、著者の
理想的な解決策を採ることなく、支那(中国)を泥沼の中へ引き込まれた。
国としての本格的な建設は、第2次世界大戦が終了してから行われることと
なった。
  ”商工農論”では、@商業、A工業、B農業、について述べている。幕藩
政府時代の商業軽視の考え方を変え、より商業的気風を高めるように改善
すべきである。工業については、新技術を取入れ世界の先進国に負けない
大工業化を進めるべきである。農業についても、西洋の技術を導入し生産量の
増加を計るべきである。明治政府は著者が言っていることを悉く実地に移して
いった。
  ”諸意見書”では、”士族就産ニ関スル上申書 要旨”として、旧幕府時代の
士族が就職し、産業経済に貢献出来る様に”授業所”を全国各地に設立
すべきである、と主張した。この時代
(明治12年)の旧幕藩時代の士族の情状は
貧困の極限に達していたといわれている。
  ”神戸商業講習所校舎新築ノ建議”では、後の”神戸高等商業学校”
(現在の神戸大学)となる”神戸商業講習所”の校舎新築を建議している。
”東京に於ける新新聞発行に関する意見”
(明治39年)では、”大阪毎日”が
関東への進出を計画し、その機関として”電報新聞“社を買収した。ここでは、
著者が”電報新聞”社を買収するに当ってその経営方針を当時の大阪毎日
新聞社幹部たちに公表したものである。
  ”漢字制限の急務”では、文部省の臨時国語調査会成立に先だって、
大阪”大毎”、東京”東日”の2社が活字整理委員会を設置し、他の一般新聞
にも活字制限を実施すべく提案した。
  ”第参篇 紀行文・随筆”では、”香泉遊記”
(明治8年)、”西遊點景”(明治11年)
”巡國紀聞”
(明治11年)、”丹波但馬地方視察記”(明治14年)、”関西漫遊記”
(明治19年)、”松陰漫録”(明治11年〜昭和6年)、などがある。このうち”関西
漫遊記”は福沢諭吉の関西地方を旅行した際に随行したものである。
  ”第四篇 日記”は、明治5年から昭和7年までの抄録を紹介している。
  ”第五篇 書翰”は、明治15年福沢諭吉氏宛のものから昭和7年12月
吉村廣氏宛までのものを掲載している。
  新聞人として一生を捧げた著者は、極めて幅広い識見を持って全てに
対応してきたといえる。大阪から東京への進出は、正に日本の政治・経済・
社会の中心が東京にあることを、確信しているからこそ実行したものと
いえそうである。
(池田)

(故本山社長伝記編纂委員会編纂、昭和12年、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社)

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