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本の紹介(No.36)
「歴史的日本地理」
(矢津昌永・横井春野共著)
本書は、吉田東伍博士著書の地理的日本歴史の姉妹編として、
今から84年前の1917年(大正6年)に発行されたものである。本書は、
タイトルに示されているとおり、”歴史を基礎として研究する日本地理”を
目的に書かれたものであり、日本全国の”地方誌”について古文書を
引用しながら木目細かく紹介している。古文書の引用に当っても、必ず
原典を明示しており、本書を読む人にとっては、後に興味ある項目に
ついて原典に戻って調査・検証するのに大変便利に利用出来そうである。
”第1篇 総説”、”第2篇 地方誌”に分類されている。
第1篇は
第1章 国号の沿革
第2章 国政(行政区画)の沿革
第3章 人種及人口
第4章 産業の変遷
第5章 交通の発達
第6章 天災地変
となっており、第2篇は、国内及び台湾、樺太について、その地方の歴史・
地理が説明されている。朝鮮は、なぜか含まれていない。
第1章では、日本が神国であることを「古事記」「日本書紀」「神皇
正統紀」などの書物から引用して説明している。
第2章では、「風土記」「律書残篇」により、日本国の地方区画が67国
3島になったこととしている。また、「延喜式」「和名抄」での地方区画に
ついて、区画名を詳しく紹介している。慶長3年”豊臣氏大名配置表”及び
明治4年”3府72県表”の2つの表は、内容が詳しく分かるようになっている。
第3章では、日本人がどこからきたのか、アイヌ種族、台湾の原住民である
各種族について説明している。また、江戸時代からの人口の推移についても
表により示している。
第4章では、日本が農業国であることから、農業について詳しく述べて
いる。古代農業生活時代の田舎警察の要目として、”天津罪”及び”国津罪”
について解説している。明治維新以降は、明治33年に耕地整理法が施行
され、明治時代の平均耕地面積が元禄時代の1.5倍、収穫高は1.8倍に
拡大した。また金銀鉱物資源、紙、陶磁器、織物については、表により種類、
産額などを説明している。
第5章では、上古の交通が水路を主体にしていたが、大化の改新により
駅馬、傳馬の法が設けられ、道路整備が行われ、橋が架けられるように
なった。大宝律令においては、”道橋津済”により”郵駅公私馬牛の事”が
兵馬で執り行われた。一方、上古の私人旅行の状況は公の機関による
保護は一切なく、道中における宿泊施設はなく、食料なども自ら携帯せざるを
得ない状況であった。
軍事上からは、主要道路に”伊勢鈴鹿”、”美濃不破”、”越前愛発”の
3ヶ所の関所を設けた。奈良朝になって、僧”行基”が道路津済の事に全力を
尽くし、摂津大輪田泊、和泉神崎泊を築き、山陽・南海・西海三道の舟程を
定めた。
朝鮮との交通は、”素盞鳴尊”の時代に既に行われていたと言う。朝鮮への
航路は、難波津を出発し、博多津、肥前値嘉島、壱岐対馬を経由して朝鮮半島
へ渡ったという。中国大陸へ渡るのと比較して朝鮮への渡航は容易であった
ようだ。一方、中国へは遣唐使を11回実施したが、転覆などによる失敗が5回に
上る。本書執筆当時は、南極探検と同等の危険度であると言っている。
平安朝時代になると、延暦21年5月の富士山大噴火により足柄路が
塞がった為、箱根新道が開通し、浜名橋を竣工、富士河・鮎河の浮橋
布施屋の設置、墨侯河
(尾張美濃)
の草
(カヤ)
津渡・鮑海
(アワミ)
河・矢作河
(三河)
・大井河
(遠江駿河)
・阿部河
(駿河)
・太日河
(下総)
・石瀬河
(武蔵)
・住田河
(武蔵下総)
の要所に渡船を設置した。これらの公共事業の多くは僧侶が
行ったものである。
また、諸国駅伝馬法により、駅伝馬制が、北は”陸奥”、”出羽”から南は
”大隈”、”薩摩”まで、壱岐島及び佐渡島を含む全国各地に設置された。
全国の道路のうち、東海道については早くから重要視され、駅次も完備され、
道路、河川、宿泊施設など他の街道に比べて整っていた。
私人旅行はどうであっただろうか。これは、上古と同じように宿泊、食料
など全てを個人で工面しなければならなかった。治安の面でも海賊、盗賊、
山賊などが横行していたことは、”土佐日記”、”更級日記”などでも紹介
されている通りである。
足利時代になると、地方の豪氏が”小独立国”のような形で交通制度を
打ち立てる事になった。周防の大内家は、鯖川の渡銭を旅客、荷物、鎧、
櫃などの種類により定めた。武田家、上杉家、北條家においても交通制度を
独自に定めていた。
徳川家康は、慶長9年”一里塚”を定め、慶長16年には”伝馬法”を
令した。また、東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道を五街道とし、
各駅に継飛脚給米、問屋給米を与え、各駅の地子
(じし)
を免除し、時々
金員を貸与して保護した。元禄年間には、五街道筋宿駅近傍12里の諸村に
対し、得役を課し”定助郷”と名付け、5,6里以上10里内外の諸村に課する
のを”加助郷”と名付けて、宿駅助成の”伝馬役夫”を出させた。この制度の
ために、助郷の街道付近の農村に及ぼした影響は大きく、多くの村が衰退
することとなった。
最も交通が頻繁となった東海道であっても、川に橋を架けない、ことと
関所の設置により、江戸城から外敵を防御する役目を果たしていた。特に、
関所では箱根関、今切関、福島関、が重要な拠点とされた。川では、天竜川、
富士川、六郷川、馬入川、大井川、阿部川、興津川、酒匂川は徒歩での川越
であり、参勤交代の大名、飛脚、伊勢神宮参拝者などの信仰的旅行者に
とっては、常に困難を伴うものであった。
海運事業については、河村瑞賢が奥州の米を舟で運搬する廻船方式で
江戸へ持ってくる事に成功している。大阪と江戸の間では廻船方式により
酒、味噌、醤油、油、木綿等の商品などを運搬していた。
明治以降は、鉄道の発達が交通の多様化を促進し、海運においては、
船舶の大型化が貿易の増大に拍車をかけることとなった。
第6章では、特に地震、海嘯
(かいしょう)
、火山噴火、台風、大火、飢饉を
取り上げている。近世以降、地震が多く発生しているが、その中でも特に
大きい地震43例をあげている。また、日本は四方を海に囲まれている国で
あるため、有史以来56回の海嘯を受けている。原因の多くは、地震と大風に
よるものであるが、原因不明のものも多くある。地震によるものは一般には
”津波”と言われている。
日本はまた火山国である。本書が書かれた大正6年までの大噴火の
うちでも特に大噴火と言われるものは、富士山、伊豆大島、浅間山、桜島、
阿蘇山、霧島山などがあるが、明治21年の会津磐梯山の大噴火については
記載されていない。
台風は毎年必ず何回かは日本に上陸している。江戸時代における河川の
多くは、土木事業の未熟なことから堤防の決壊が避けられず、大きな水害が
起きていた。江戸のような新しく開拓した土地は、特に低地で地盤が弱く、
大被害を受けることが多かった。
江戸における大火は、記録にあるだけでも90回を越えており、3年に1回は
大火が起きていることとなり、記録にない中程度の火災を含めると265年間、
毎年1回は何らかの火災に巻き込まれているのではないだろうか。
飢饉は、気象条件により起きるものではあるが、江戸時代に起きた飢饉の
多くは、各藩における農業施策の不備が原因となったことも多かったようだ。
第1章は、関東地方である。関東八州はその昔、”坂東”と言われており、
中世以来”関八州”(相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野)の名が
あったという。”関東”とは、古くは鈴鹿関、不破関、愛発関の三関より東の
諸国を指した言葉であり、この三関より西を”関西”という。「東鑑」には、関東
28国、関西38国と言っている。ここでは、東京都、神奈川県、埼玉県など
身近な地方をピックアップして紹介する。
現在の東京は、武蔵国の一部である。武蔵国は、現在の東京都、神奈川県
の一部
(橘樹郡(現川崎市)、都築郡(現横浜市北部)久良岐郡(現横浜市南部)
、埼玉県の一部
(入間郡、比企郡、秩父郡、児玉郡、大里郡、北足立郡、南埼玉郡、北埼玉郡、北葛飾郡など現埼玉県南部)
からなっており、390方里の広さを有する。多摩地方
(南多摩、西多摩、北多摩、
の各郡)
は、
歴史的にみて古くから開けた街及び街道があり、国分寺跡、神社、仏閣など
由緒あるものが多く残っている。奥多摩郡は、現在の渋谷、新宿、中野、三鷹
などの場所であり、本書が書かれたころは、まだ緑の多い田園風景が残っていた
時代である。北豊島郡は、古くは”豊島氏”と”江戸氏”と称する者がいた所である。
明治時代には、まだ豊島郡北部の一部は埼玉県にあった。雑司が谷、板橋、
王子、三河島、日暮里、千住が北豊島郡であった。
本書に挿入されている古い時代の江戸図を見ると、外堀の西にある”新橋”と
”京橋”を結んだ南側は江戸湾がすぐ目の前である。また泉岳寺の東側には、
大きな”溜池”
(江戸水道の水源の一つ)
が横たわっている。江戸時代の府内・
府外の境界は、幕府が文政年間に定めている。江戸時代の刑罰で、”追放”
のなかに”江戸払”というのがあるが、これは、品川、板橋、千住、本所、深川、
四谷大木戸以内から外に払う事であり、公事方御定書に規定された府内の
定義より若干狭い範囲であった。
相模国は現在の神奈川県であるが、古来から栄えている村落がいくつか
ある。相模国分寺は、現在の相模原市にあったと言われている(現在、国分寺
跡が発掘されている)。
鎌倉郡は、北條氏、足利氏の時代に寺院が建立され、村落が形成された。
三浦郡は、中世に三浦氏一族が支配した所である。
久良岐郡は、川崎から金沢八景までの海岸線に沿った地域を言う。
橘樹郡は、横浜市の一部、川崎市の多摩川沿いの海岸までの地域を言い、
保土ヶ谷、神奈川、生麦、川崎がその地域となる。
都築郡は、万葉集にもみえる古くからある地名で現在の町田市辺りである
という。
千葉県は、安房、上総、下総の三国からなっている。安房は、中世の
里見氏の勢力範囲にあった地で、”安房齋部
(いむべ)
”の安房から移ったと
される。
埼玉県は、武蔵国の北部をいう。入間郡(現入間市)に流れている
新河岸川は、江戸時代には、江戸と川越を結ぶ航路として大きな働きをした。
川越は、もと”河越”といい、古くは”河肥”ともいった。戦国の頃は、上杉氏、
北條氏の範囲下にあったため、工業、商業が栄えた。江戸時代には、譜代
大名が江戸を警護する役目を負った事もあり、重要な位置にあった。
静岡県は、日本を代表する山、富士山である。富士山の異名は数多く
ある。”不二”、”不死”、”布士”、”不盡”、”不時”、”富児”、”富祗”、”藤ヶ岳”、
”時不知”、”四季鳴山”、”高師”、”鳴澤”、”高根”、”常盤”、”二十”、”見出”、
”塵”、”三重”、”新”、”神路”、”三上”、”羽衣”、”乙女”、”竹取”、”国深”、
”御影”、”東”、”鳥子”、”影向”、”七寶”、”仙人”、”和合”、”養老”、”四面”、
”吹風穴”、”恋ノ中山”、”芙蓉峯”、八葉岳、等、ここにあげた以外の呼び名が
数多くある。
富士山には昔から、”富士講”がある。富士講の起源は、長久2年(1041年)
の銘文が残っている。”頂上大日堂”を建てたことがきっかけで、”富士大日の
信仰”が起こり、天文、天正に至り、江戸時代の富士講に繋がる。富士講の
開祖は藤原角行と言われている。角行は、1542年(天文10年)長崎生まれ、
1558年(永禄元年)水戸に移り、家事まで修行の後、この年5月3週間かけて
富士登山を試み、頂上に到達した。この後、角行はほとんど全国を修行し、
富士登山128回、1647年(正保3年)106歳で人穴で遷化した、と富士講の人は
信じている。
富士山の噴火の記録は、「続日本紀」のなかで781年(天応元年)7月6日
”駿河国言、富士山下雨灰、灰之所及、木葉凋葉、…”とある。最も新しい
噴火は、宝永4年11月23日のもので、江戸に多くの火山灰が降った。この噴火に
ついては、「箱根御関所日記」など詳しい史料が多く残されている。
京都府は、平安京に都が置かれたのが794年(延暦13年)、それから1200年
以上になる。本書では、案内書並に市内各地を紹介している。特に山城国は、
上京、下京、洛東、愛宕
(おたぎ)
郡葛野
(かどの)
郡、乙訓
(おとくに)
郡、紀伊郡、
宇治郡、久世郡、綴喜
(つづき)
郡、相楽郡、に分類し、名所旧跡、寺院などを
詳しく書いている。
大阪府は、大阪市の弘化4年の地図が挿入されており、手元にある昭和
30年代後半頃の地図と比べると、大阪城の西側及び南側近辺については、
120年経過している割には町(土地)の形が大幅に変わっていないように
見えるが、小さな川が縦横に入り込んでいたのが、昭和の地図からはほとんど
消えている。。それからまた40年経過した後の平成の地図を見ると、地図上での
変化はほとんど見られないようだ。
以上、各地を簡単に紹介したが、現在と比較しても本書が発行されてから
既に84年経過しており、内容的に相当の違いがある。昔のよき時代の日本の
各地を十分見ることができる本であろう。(池田)
(矢津昌永・横井春野共著、大正6年、南北社)
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