本の紹介(No.37)

「側面観幕末史」(桜木 章著・三上参次校閲)

  本書は、米艦渡来以後における風刺的落書類を主として、社会の一面を
観察し、これに正確な一貫の歴史を連絡して記述した幕末史である。本書では、
一つの事実から複数の落首があり、内容的にそれぞれが矛盾する場合が
あるが、複数採用する関係から止むを得ないものとしている。落書には、仮名
遣いの誤り、字の誤り、当て字、などがあるが、本書では出来るだけ元字の
まま載せることとした。
  目次は、全部で58章あり、項目として面白いので全て紹介する。(”章”は省略)
 1.浦賀の雨夜        21.本能寺の落日       41.市中取締門
 2.内海八景          22.嘉紋散            42.彦根城御動座の陰謀
 3.江戸の警鐘        23.公方様の毒殺       43.蛤御門の變
 4.飴利菓船べい       24.櫻田の紅雪         44.野分の萩
 5.品川沖の亀甲島     25.上り藤            45.防庁散
 6.野暮代之侍        26.坂下口の狼藉       46.用金丹
 7.西海之荒浪        27.公武合体          47.兵庫の黒船
 8.伊勢度農郡當惑     28.逆意家            48.旗本の空威張
 9.唐人追           29.世界辻噺          49.出来厄払
 10.大学の孟子文      30.世直丸            50.泣き面に蜂
 11.黒船の退帆        31.皇都の腥風         51.諒闇の歳暮
 12.下田の冬枯        32.江戸の恐京病        52.人間万事裏表
 13.鯰大家破焼        33.将軍様の御上洛      53.討幕の蜜勅
 14.政局の一變        34.攘夷の節刀         54.ゆかりの月
 15.影弁慶           35.明山公の画策        55.トコトンヤレ節
 16.加茂川浚         36.七卿の都落         56.忍が岡の夢
 17.ホウロク調練       37.過激派の不覚        57.江戸城の明渡
 18.櫻閣の獨舞台      38.横浜の貿易         58.江戸の水
 19.林家の不首尾      39.矇仇賊變
 20.黄金の魔力        40.筑波颪(おろし)
  以上58項目を見てみると、夫々にいわくがありそうである。この中から
10件くらいピックアップしてみたい。
1.浦賀の雨夜  嘉永6年6月3日(1853年7月8日)アメリカのペリーが
  軍艦4隻を率いて浦賀港に来航した。徳川幕府は天下泰平の夢を破られた
  わけである。この時流行した謡に、大津絵節『雨の夜』がある。(謡は省略)
  ペリーが浦賀港に来航したときに、雨模様であったことを裏付ける落書が
  ある。
    あめりかにあまゝ見らるゝ日本ぼう
3.江戸の警鐘  「続泰平年表」によると、
    浦賀諸家の陣屋より昼夜を分たず、注進の汗馬、海陸飛脚の往来、
    櫛歯を挽よりも忙かはしく、江戸の大都繁華の巷も俄に修羅の衢
(ちまた)
    に變じ、萬の武器調度を持運び、市中古着商ふ家には陣羽織、小袴付、
    簑笠等をかけならべ、鍛冶を業とする者は、家毎に甲胄刀槍を鍜ひ、
    武器商ふ店には、古き武器を累ねて、其価平時に倍せり、海浜に家宅
    ある士民老幼婦女の立退かんとて、家財雑具を持運ふ様、さしもに
    ひろき府下の街衢も、奔走狼狽して、錐を立つべき処もなし、訛言隨て
    沸騰し人心恟々として定らず
  という騒ぎであった。

5.品川沖の亀甲島  この項目では、百人一首の替歌が紹介されている。
    町中へうちいでみればどうぐやのよろいかぶとのたかねうれつゝ
    わが家はうらがのきんじょしかもはまあぶなひとこと人がいふなり
    かほの色はかはりけりないなつらとあめりか人をながめせしまに
    これやこのゆくもかへるもからばなししりもしなひでおふかたの口
  というように、百首詠まれている。
9.唐人追  安政元年正月14日午後ペリーの一行は再び江戸湾に来航
  してきた。ペリーは、昨年幕府と約束をしていたわけだから、当然幕府では
  来航することを予期していたが、まさか約束通りに来るとは思わなかった
  ようだ。15日に幕府は慌てて町触れを出し、火消屋敷で早半鐘を打つことを
  禁じて子木を打つことにした。
    から風もなにおそれめや拍子木の音もかちかち守る火のもと
  という狂歌は、この日のことであった。また、水戸斎昭が米艦渡来の処置に
  ついて、越前候に答えた書簡に
    此度は備なければ先つ帰し又こひすみによあるのめりか
  という狂歌がある。
12.下田の冬枯  幕府ではやっと米艦を退帆してほっとしてところへ、
  英艦4隻が長崎港にやってきて、日本の諸港に停泊を認めてほしいと長崎
  奉行に申出でた。このとき英国は、ロシアと戦争中であったため寄港先が
  必要であったのである。
13.鯰大家破焼  このような最中に、江戸で大地震に見舞われてので
  ある。安政の大地震は、江戸市街のほとんどに被害を与えたが、水戸藩
  では名士藤田東湖が地震により死んでいる。地震は鯰が起こすといわれて
  いたことから、”鯰絵”が出回っている。
15.影弁慶  外国からの開港を求められた幕府は、軍艦の製造が必要と
  なり、安政元年5月浦賀に於いて、英国船に傚って1隻の軍艦を製造した。
  長さ22間、幅5間の2本檣
(ほばしら)で『鳳凰丸』と名付けた。これがわが
  国で西洋型の船を製造した最初である。これ以前に薩摩で西洋型の船を
  製造しているが、外形だけであった。
23.公方様の毒殺  将軍家定は7月6日薨去となった。この夜、若年寄
  本郷丹後守は罷免、御側衆石河土佐守は寄合に、奥医岡櫟仙院は隠居
  謹慎、を命ぜられた。また、奥祐筆志賀金八郎は御用部屋で自殺した。
  このため、巷では将軍の薨去したことについて、色々の噂が飛び交った
  のである。
24.櫻田の紅雪  京都に於いては、6月27日条約調印の上奏が達した
  のである。連歌の中に次の歌が見える。
    しら雪に風の吹しく駕籠の戸につらぬき留ぬ太刀ぞ見へけり
    時は今雪は降とも弥生かな散るは火花の櫻田のそと
    櫻田に胴とくびとの雪血かび井伊馬鹿ものと人はいふなり
  櫻田に起きた騒擾を知った江戸の市民は上を下への大騒ぎとなったようだ。
  幕府では、この後の暴挙が起こらないよう、水戸候の登城を停止させ、
  竹橋、清水、田安、半蔵門は役人の外一切通行を止め、市中の巡邏を
  厳重に取締らせた。
55.トコトンヤレ節  明治維新のときに歌われたと言われる、この歌は、
  大村益次郎が西洋の兵陣の軍歌に擬して作ったものであるという。

    一天萬乗の帝王
(ミカド)に手向ひする奴をトコトンヤレトンヤレナ
    ねらひ外ぢさずどんどん討ち出す薩長土トコトンヤレトンヤレナ

    宮さん宮さん御馬の前に閃ひらするのは何ぢゃいなトコトンヤレトンヤレナ
    あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗ぢゃ知らないかトコトンヤレトンヤレナ

    伏見淀鳥羽橋本葛羽の潜ひはトコトンヤレトンヤレナ
    薩土長しの合ふたる手際ぢゃないかいなトコトンヤレトンヤレナ

    音に聞こえし関東侍どっちゃへ逃げたと問たればトコトンヤレトンヤレナ
    城もきかいも捨てゝ吾妻へ逃げたげなトコトンヤレトンヤレナ

    城を取るのも人を殺すも誰も本意ぢゃないけれどトコトンヤレトンヤレナ
    わし等がとこの御国へ手向かひする故にトコトンヤレトンヤレナ

    雨の降る様に鉄砲の玉の来る中をトコトンヤレトンヤレナ
    命惜まず進み行くのもみんな御主の為ぢゃものトコトンヤレトンヤレナ

以上を紹介したが、本書には、上野戦争、会津戦争など、各地で幕府方に
味方して戦い、多くの犠牲者が出たことについて、ほとんど触れられていな
かったのは、どのような理由によるものなのであろうか。先般、上野公園の
一角に、上野戦争の犠牲者を祭ってある場所を見る機会があった。その日が
丁度、上の戦争で亡くなった犠牲者を供養する日であった。今でも上野戦争に
よる多くの関係者が参加している、と受付にいた人は話していた。明治維新
から130年以上経っているにもかかわらず、関係者以外の方もお焼香する人が
絶えないという。明治維新の戦争の傷跡の一部が、未だに日本人の心の中に
残っているのかもしれない。(池田)

(桜木 章著・三上参次校閲、明治38年、啓成社)

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