特別閲覧室(No.2)

萬延元年第一遣米使節日記 (社団法人 日米協会)

  この本は、日米協会創立60周年記念に当り復刻版を刊行したもので、
原版は今からおよそ82年前の大正7年5月に発行されたものである。
英文編は2年後の大正9年に発行された。明治になってからの遣米、
遣欧に関する紀行文書としては、明治4年に実施した岩倉使節団の
歴訪の旅を綴った「特命全権大使米欧回覧実記」がある。
  本書は岩倉使節団より11年前に実施した「萬延元年第一遣米使節日記」
(原名航海日記)である。本日記を記述したのは副使の”村垣淡路守範正”、
正使は”新見豊前守正興”、監察は”小栗豊後守忠順”、など総勢77名の
遣米使節団となった。77名のうち、10代の若者が4名含まれている。
最も最年少者は”吉川金次郎謹信”の16歳である。因みに最年長者は
”五味安郎右衛門張元”の61歳である。この使節団の中心は、20歳代と
30歳代のもの合せて55名であったと言えよう。新しい日本の建設を担う
重要な任務を背負っての使節団であったことは、8年後の明治維新という
歴史が物語っている。
  この使節団がアメリカ大陸まで乗って行った船は、ペリー提督が日本を
訪れた黒船そのものである。アメリカ大陸へ到達するまでの道程は、
暴風雨のなかを突き進んだため、直接大陸へ到達できず、ハワイ群島へ
立ち寄る事となった。使節団一行にとっては全くの未知の国であったため
相当に戸惑った様子が伺える。当時のハワイは、アメリカ合衆国の一員では
なかったこともあり、使節団は外交上のことを心配していたようである。
  ただし、使節団としては儀礼上のことを重要視して、日本へ帰国後
ハワイに対しお礼のお返しを行っている。
  3月3日ホノルル港を出発し3月9日アメリカ大陸サンフランシスコ港に
到着した使節団は、市内の5階建て煉瓦造りのホテルに案内されている。
部屋の様子を記述している内容から、一人一室で、部屋毎に”陶器製の
シビン”が置いてあるようだ。3月16日咸臨丸が修理中であり、水夫が
療養中であることがわかる。3月18日サンフランシスコ港を出帆し
翌閏3月5日パナマ港に到着し、蒸気機関車でアスヒンワルに行き、
そこから米国軍艦ローノック(3400トン、乗組み総人数540人)に乗り換え、
ボルトベルロで飲料水を補給、閏3月20日ニュ−ヨークの入り口
サンテブックに到着した。しかし、大統領の命令により、ワシントンに近い
ハムトンルートへ行くこととなった。
  いくつかの都市を表敬訪問した後、5月13日ナイヤガラ号にて
ニューヨーク港を出発した。5月29日シントウィンセント島の
ポルトガラント港に着いた。ここから、赤道を越え、南半球に入り
6月21日アフリカ大陸ポルトガル領コンゴのロアンダ港に到着した。
水、石炭などを補給し、6月末ロアンダ港を出発、南アフリカ最南端の
喜望峰を経由、八月16日アンエル港へ投錨した。9月10日香港に到着。
日本人一行は上陸して市街地を見学した。なお、日本に関する情報に
ついては、アメリカに滞在中新聞で見た程度で、日本人一行には
ほとんど耳に入ることはなかった。9月18日香港を出発。9月26日
伊勢沖を通過したときは日本人一行は悦びのあまり涙を流した。
  9月28日品川沖に停泊。10月5日アメリカ合衆国政府からの
贈り物の品々を大森の町役場に陸揚げした。徳川幕府からは、
アメリカ合衆国で日本人一行が宿泊、飲食などのお世話になった
ことに対する謝礼と、咸臨丸修復に対する費用などの支払いを行った。
12月1日将軍に謁見、村垣淡路守範正、新見豊前守正興、小栗
豊後守忠順の
3人に対し、各々300石の加増となった。
(M.D)

(昭和52年・日米協会)

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