特別閲覧室(No.3)

慈大愛宕新聞 縮刷版<第1号〜第194号>
                         (社団法人 東京慈恵会医科大学同窓会)

  この本は、タイトルの通り大学新聞の縮刷版である。創刊号の
第1号は今からおよそ76年前の大正14年3月である。日本における
大学新聞の第1号は大正6年(1917年)5月創刊の慶應義塾大学の
「三田新聞」である。東京帝国大学の「帝国大学新聞」が大正9年、
早稲田大学の「早稲田大学新聞」が大正11年に夫々創刊されている。
従って、表題の東京慈恵会医科大学の「慈大愛宕新聞」は大学新聞の
中では比較的早い時期に創刊されたものであることがわかる。
  慈恵会医科大学は私立の医科大学としては最も古い学校の
ひとつであり、歴史と伝統を持った格式の高い医科大学であると
言える。
  このような大学から発行された”大学新聞”第1号の内容を見て
みよう。新聞の主な見出しを列挙してみると次のようになる。
  ● 発刊の辞
  ● 爾みづからに信實なれ(金杉恒彌)
  ● 発刊に際して(畔高定行)
  ● 成医会に置ける於ける矢崎助教授講演 独逸学生々活
  ● 医師対薬剤師の問題
  ● 愛宕山を目指す勇士へ 歩みし後を顧みて(愛宕山人)
  ● ヂフテリア血清の使用量に就て(医学博士 戸川篤次)
  ● 復旧せる大学附属研究所
  ● 自然適応現象(医学博士 永山武美)
  ● 南支旅行日誌(本二 甲斐生)
 <文芸評論>
  ● アントン、チェーホフのこと
  ● 演劇の根幹たるもの(金杉恒彌)
以上の通りである。医科大学の新聞であることから、当然専門分野の
記事が多くなることはやむを得ないであろう。また、各ページの最下段
(2段分)は広告が掲載されている。ここでも、病院との関係から掲載した
ものがほとんどのようだ。最後のページの広告は、14件の開業している
卒業生からのものであろう。
  因みに、このときの東京慈恵会医科大学附属東京病院には4人の
医学博士がいるが、2人は”旧学位規定”による医学博士であり、2人は
”新学位規定”による医学博士である。また、新学位2人のうち1人は
東大、1人は慈恵大から医学博士を授与されている。
  なお、記事の中に”金杉博士”(金杉恒彌氏のことだと推定する)と
明記されているが、旧学位授与者、新学位授与者(「論文総覧日本の
博士研究」、昭和2年12月、啓明社)の中には、該当者がなぜか見当たらな
かった。
  さて、当時の医科大学は日本の大学の中でどのような立場にあったので
あろうか。昭和2年、当時の全国の国立、私立大学で医学博士が授与できる
大学は、わずか15大学に過ぎなかったのである。その中の一つがここに
登場した慈恵会医科大学である。医学に対する国の取り組みは相当な
ものであったに違いないが、全国で15大学しか医者を養成できないことに
対して、医学専門学校が多く設置された。大正11年には官公立の医学専門
学校はすべて医科大学に昇格し、太平洋戦争前の医学専門学校は私立
だけとなった。

(池田)

社団法人 東京慈恵会医科大学同窓会・1985年10月)

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