特別閲覧室(No.4)

「全国戦災史実調査報告書
 昭和55年3月
                         (社団法人 日本戦災遺族会)

  この本はタイトルの通り、日本本土における戦争によるあらゆる
被害について、全国の新聞に報道されたものを調査し、報告したもの
である。調査を開始したのが昭和54年であったこともあり、新聞資料と
言えども相当散逸していたものと思われる。戦時中の新聞のコピー
ということから、活字にするには相当難しいものも含まれているが、
当時を振り返るには真実味があり、統制が厳しかった中では興味を
引く記事が多く見うけられる。戦争中は新聞記事は全て軍部の統制の
もとに記事を書いたこともあり、軍部の検閲を受けたことが窺い知れる
ものが多くあるのはやむを得ないであろう。日本に有利な形で記事が
成り立っているのも現在では一応理解できる。
  ここに紹介する報告書は、昭和55年3月に発行されたものである。
この社団法人からは、昭和55年を含めて数年に渡り同種の報告書が
毎年発行されている。すべての報告書を調べたわけではないが、現在
手元にある報告書を見る限り、この形に取りまとめるには、相当手間と
時間がかかっていると思われ、頭が下がる思いである。難をいえば、
記事のインデックスがあれば、なお使いやすいと思う。内容をすべて
読んでいないので(判読できない部分もあるが)一概には言えないが、
米軍の空襲の記事が目立っているようだ。それほど多く空襲があった
のであろう。(小生が疎開していたところは、飛行場の近くであったため、
空襲が多くあったと記憶している)
  昭和17年4月19日の朝日新聞は、東京に米軍機が来襲した記事を
報じている。開戦から僅か4ヶ月後である。まだほとんどの日本人は
本土の制空権が日本にあると信じていたはずである。このように早い
時期に米軍機が首都に侵入したことは東京市民にとって大きな驚きで
あったであろう。
  昭和17年11月11日の朝日新聞に、乗車日指定券を持たない週末、
祭日の旅行禁止の記事が出ている。開戦から僅か11ヶ月目にして
この様な措置が取られている。個人旅行は以後ほとんど出来なくなった
ようだ。
  昭和18年6月26日の朝日新聞は、戦力増強へ学徒を総動員する
ための「学徒総動員要綱」が出された。そして10月21日雨の中、女学生など
多くの人達に見守られながら神宮外延競技場で学徒出陣壮行会が
行われた。
  昭和19年3月1日の朝日新聞は、3月5日から東京(歌舞伎座、明治座、
日劇など)、大阪、京都、名古屋、神戸の18の劇場が幕を閉じることを
報じている。芸術も戦争によって制約を受ける事となった。
  昭和19年7月18日の朝日新聞は、空襲が激しくなったため、学童疎開が
実施されたことを報じている。学童疎開は主に、東京、大阪、名古屋などの
大都市圏の学校で大々的に実施された。B29などの爆撃機により全国の
軍事基地及び主要都市の多くが爆撃された。学童は疎開により人的被害は
特別な事情で主要都市に残った学童に比べれば多くはなかったが、
都会地に残った多くの家族が爆撃の犠牲になった。
  昭和19年3月30日の朝日新聞に、”旅行制限一日実施”の記事
がある。記事には、証明書の発行、定期券での乗越し禁止、公益上
必要とするもの以外の小荷物の制限、など色々な規制が記述されている。
外交評論家清沢洌氏の「暗黒日記」にも、官公庁からの依頼で地方へ
講演会に行くのにも汽車の切符がとり難くなった事が書かれている。
もちろん、軍部の許可があってもである。
  また、戦意高揚のための色々な記事も多く目立っている。外国語の
使用制限、食糧の増産、花見など行楽の自粛、贅沢の追放、など。
  昭和20年に入ると、空襲、機銃掃射、艦砲射撃などの言葉が記事の
中に多く見られる。
  最後に、「長崎新聞」を紹介したい。
  昭和20年8月8日の長崎新聞は、広島市に新型爆弾が投下され、
大きな被害がでた事を報じている。翌日の9日に長崎市が原爆に
見舞われる事など誰も予想だにできなかったであろう。
(池田)

社団法人 日本戦災遺族会・昭和55年3月)

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