特別閲覧室(No.5)

近代世態風俗誌」(豊泉益三著)

  この本は、昭和26年に発行された江戸、明治、大正の夫々の時代の
風俗に関する歴史書である。本書を執筆したのは、(株)三越の役員で
あった豊泉益三氏である。一民間人が、ここまで調査研究して完成した
著書であることに対して、言葉が出ないほど驚く次第である。
  目次は、江戸、明治、大正に大きく分類し、夫々の時代を更に細かく
暦年毎に分類している。全体の構成は江戸時代が70%を占めており、
残り30%が明治、大正時代となる。従って、主体は江戸時代ということに
なるであろう。もともと非売品ではあるが、古書展などでは良い価格で取引
されている。現在復刻版で出版されているかどうかは確認していないので、
分からない。終戦直後の出版である関係から、紙質、装丁は余り良くない
のは仕方がないであろう。もし出来れば、文庫本で復刻版を出したらどうで
あろか。
  さて、内容であるが、”江戸市街の建設”の項の”慶長見聞録”に

    當君武州豊島郡江戸へ御打入よりこのかた町繁昌す、しかれ共
   地形広からず、是に依て、としまの洲崎に町をたてんと仰有て、慶長
   八卯の年、日本六十餘州の人歩をよせ、神田山をひらきくづし南の
   海を四方三十餘町うめさせ陸地とし、其上に在家を立給ふ。

として、江戸の町を埋立てにより建設したことがわかる。現在の八重洲
から有楽町、新橋などが埋立てられた場所であろう。江戸の市街数が
時代別に明記されている。

    延宝7年  808町           延享4年   1678町
    正徳3年  933町           寛政3年    同上
    享保8年 1210町            同 4年   1689町
     同10年 1672町           天保14年   1719町
    寛保3年 1678町

  ”煙草と煙管”の項の”異本塔寺帳”に

    慶長十年今年
自異国種子を持来て作り手入を指南す

とあり、また、”奥富士物語”に

    慶長九甲辰今年唐より初めてたばこ日本に渡り、長崎桜の馬場に
   植え是よりたばこ呑事はじまる

とある。これらの書物により、喫煙することはキリスト教伝来により行われて
いたが、煙草の栽培はこの頃から行われ、全国に広まったと思われる。
  ”男子の装束”については、冠、納豆烏帽子、風折烏帽子、袍
(ほう)
素襖
(すほう)、直垂(しただれ)、鎧直垂(よろいしただれ)、直衣(なほし)、狩衣
(かりきぬ)
、大紋(だいもん)、裃(かみしも)、長裃、無地熨斗目(むじのしめ)など
項目ごとに細かい説明を行っている。
  海外との関係では、”海外との交通”、”我国民海外発展”、”貿易”、
”耶蘇教”、”ジャガタラ文
(ふみ)などで詳しく書かれている。特に、ジャガタラ
文で日本の友達への手紙が紹介されている。
  江戸の初期にはなかった”日本橋”について、”望海海談”、”況齊叢書”、
”慶長見聞録”、”北條五代記”により紹介されている。
  本書では、日本橋際に立てられた”高札”の文面を紹介している。川柳に

    高札は目で見るそばで耳で見る

とあり、字の読めない人が多く、また高札の意味がわからないものが、人の
読むのを聞いてわかった、のでこの川柳が出来たのである。
  ”寛文の禁令”では、公家・武士に対しては寛文3年”節倹令”が、町人に
対しては寛文8年”町触”が布告された。町触布告前の寛文7年に、正月に
家の門口に松飾することを禁止され、寛文12年6月にお祭りでの踊りも禁止
された。
  ”延宝天和の風俗”として、”六尺袖”、”花見小袖”、”羽織(腰巻羽織、
白ぞろひ)”、”帯(吉爾結、前帯)”、明暦は”髷
(まげ)(兵庫髷、島田髷、
勝山髷、丸髷)”、”帽子と笠”、”男達(旗本奴、六方姿、町奴)”、寛文には
”風呂屋と丹前風”、”歌舞伎と遊女”、明暦大火後、一時禁止になって
いたが再び”舟遊び”が盛んになった。
  ”江戸呉服屋の始と越後屋”で、三越の前身である”越後屋”は延宝元年
8月江戸本町2丁目に呉服商を開業、同6年本町1丁目に新店を開業した、
としている。”我衣”
(加藤曳尾庵)、”日本永代蔵”(井原西鶴)には、越後屋に
関することが載っている。
  五代将軍徳川綱吉の代には、幕府財政が窮迫となり”天和の禁令”が
出された。元禄15年には”赤穂義士”、16年には”元禄大地震”、宝永元年
には”浅間山大噴火”、”江戸の大水害”、”富士山噴火”など災害が
重なった。(なお天和、貞享、元禄、宝永の各時代の風俗については、
”我衣”、”守貞漫稿(近世風俗史)”にも詳しく載っている)
  ”江戸の問屋仲間”に、江戸時代の経済の中心は大阪であり、諸大名の
蔵屋敷が設けられ、諸国の物産が大阪商人の手により全国へ流れて
いった、とされている。大阪から江戸へは、海運が大きな役割を果たした。
この様な中で、江戸では、十組の”仲間問屋”を結成した。”十組問屋”という
名称は用いられていたが、実際には享保頃は24組、文化10年には68組で
あった。天保12年幕府は”問屋組合”の解散を行ったが、嘉永4年に
再興され、その時は95組であった。”仲間問屋”については、東京都
公文書館が発行する「江戸東京問屋史料 諸問屋沿革誌」に詳しく記述
されているので、参考にして頂きたい。この書物では、各問屋組合の規則が
列記されており、どのような規制の下に組合が運営されていたかが分かる。
  ”江戸の海運”では、河村瑞賢、紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門、
淀屋辰五郎、中村内蔵助などの富商が活躍した。
  八代将軍徳川吉宗の時代の”名奉行大岡越前守”について、講談では
多くの裁きを行っているが、実務上の主な業績としては、”目安箱の設置”、
”町火消の設置”、”大奥女中の解放”、”施薬院の設置”、”出版条例の
制定”、”米価の調整”、”新田の開墾”、”史料の収集”、”法典編纂”などが
あげられる。
  明和から天明にかけて、地震・噴火・洪水・火災・疫病・飢饉等の異変が
全国的に起こっている。異変により、各地で米騒動が起こり、全国的な米の
不足から江戸では切符制が実施された。
  寛政元年”節約令”(町触)が布告された。本書には”寛政改革前の
世相”で”流行落書”が1頁にわたって紹介されている。また、”廃頽
(はいたい)
せる世相”の中で”今様物語”は文化・文政で質素堅実が失われ堕落した
様子が窺われる。(ここでは省略)
  ”日章旗の制定”を述べている。公式に使用したのは、嘉永8年6月
浦賀に本陣を構えたときに日章旗を3本立てたのが、最初である。国旗
として定め布令したのは、明治3年1月である。
  ”幕末の京阪風俗”を”髪かたち流行衣装”
(山口泉園著)で紹介している。
  以上が江戸時代である。明治以降についてはここでは省略させて頂く。
興味のある方は、本書を読むことをお勧めする。(池田)

(豊泉益三著、昭和26年、近代世態風俗誌刊行会)

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