「霧の波紋」(1)            白川零次著

序章 甘い酒(1)


  満足と不満の相半ばする気分で、大場均はスチュアーデスがサービスして
くれた日本酒をグラスで口に運んだ。低いエンジン音の震動が、豪華客船での
微瞳(まどろ)みに似て、太場の耳にも、からだにも心地よい。ロンドン発成田行き
JALのファーストクラス・キャビンである。
  ロンドンでの五日間は大満足だった。最初の三日間は妻の知恵子サービスに
徹した。ショッピング、レストラン、ウインザー城やアスコット見物、まさにロンドン
お登りさん特有のどさ回りだっだが、知恵子は十分満足した様に見えた。彼女も
ロンドンは何度も来ているはずだが、今までの中で一番喜んだのではないかと
大場は思った。
  これまで三度夫婦連れでやってきたが、いずれも山川メタル株式会社社長、
または会長夫人としての半ば公用旅行で自由がきかなかった。自分の思い
通りのショッピングや見物が出来たのは今回が初めてだったろう。
  しかも彼女にとっては、息子同様に気のおけない甥の英文学教授を案内役
兼通訳に仕立てて、勝手気ままに動き回れた。大場も不自由になって来た眼の
事もあまり気にならずに、その甥のガイドにくっついてあちこち知恵子につき
合った。
  特に最後の夜は大場思い通りの演出だった。妻には内緒で甥に頼み、
大手新聞のロンドン支局員を集めるだけ集めさせた。
  亡くなった娘、早苗の事故現場に供花するのを撮影させて、記者会見を
するのが狙いだった。
  最初そこまでしなくとも、大場は山川メタルの連中が、たとえば原田新社長が
自分達夫婦のロンドン追悼旅行を日本の新聞に書かせるだろうと思っていた。
  だが、彼は今満足不満足半々のちょっぴり苦い酒を味わっている。一言で
言えば自分が後継社長として指名した原田康雄に対する不信と不満であった。
  “奴に任せておけば、果たして今回の娘の追悼記事を新聞に書かせる
だろうか”
  その不信感があったので、ロンドン事故現場での記者会見を急遽思い
立ったのだ。それが見事に成功した。きっと明日か明後日、日本の新聞に
美談として大々的に掲載されるだろう。
  原田新社長に対する大場の不満感はロンドン滞在三日目に頂点に達した。
  緑内症の進行で眼の不自由な大場の為に、甥の達三が一日遅れの日本の
新聞を読んで聞かせたのである。
  “山川メタル、自殺社員遺族の提訴を受けて立つ、原田社長、社内事情
全貌を明きらかにして応戦の覚悟”
  という見出しに続いて“この訴訟を受けて立つ以上は、過去の社内事情を
すべて明らかにせざるを得ないだろう。この際、山川メタルは企業の情報公開
という社会的使命を十分認識して、オープンマインドで対応するつもりである”
という浜野総務部長名でのコメントが付けられていた。山川メタルは、長びく
構造不況と公害賠償金の負担で、毎年数百人規模のリストラを繰り返して来たが、
今年一月、福岡支店での社員自殺の原因がリストラによるものとして、訴訟にまで
発展してしまったのである。
  三月前、株主総会直後から原田新社長がとって来た行動は、会長を退任した
大場にとって、不満というより激怒に近いものばかりだった。
  まず総会の一週間後に、突然山川地所の長老である波江相談役から
呼びだしがかかった。今時、なぜ山川グループの総帥が……と悪い予感を
抱きながら、指定の料亭に出かけた大場は、波江長老の背後ににやりと笑う
原田新社長の影を見た。
「来年は大場さん。あんたも勲章の年じゃな。わしも何年か前に勲一等
瑞宝
(ずいほう)章とかいうものをもらったが、ありゃもらって無駄なものでもないよ。
一つ、ここは原田とか言う若い社長を立ててやって、勲章をもらい易くしてやっては
どうかね。山川メタルさんの経営も仲々苦しいようだからな。億単位の退職金を
出すのは原田君としても苦しかろうよ。」
  大場への波江長老の話はそれだけであった。そのあとは昭和二十年代の
山川財閥解体の昔話や、波江が趣味にしている小唄端唄の雑談で終始した。
  そしてその夜、大場は決断したのだ。四億円強といわれる退職慰労金よりも
勲一等を狙おうと。翌朝その心情をこめて原田新社長に退職慰労金の辞退を
電話で通告した。妻の知恵子には一切話をしなかった。
  この辞退を“後継社長の経営を助ける美挙”として原田新社長がすぐ新聞発表
してくれるものと大場は考えていた。

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

前のページに戻る

1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。