「霧の波紋」(2)                 白川零次著

序章 甘い酒(2)


  ところが大場の辞退通告から一月経ち二月経っても、どの新聞も音沙汰なし。
“もっと良く探せ”と知恵子を怒鳴りつける朝が多くなった。緑内病を患ってから
大場は、各新聞に出ている山川メタルに関する記事を毎朝知恵子に読ませて
いるのだ。知恵子は最初の頃は“十分見ましたよ。これ以上何もありません”と
返事をしていたが、最近では怒鳴る大場に一言も口答えせずにぷいと立ち去る
ようになった。
  四億円辞退という“美挙の報道”をいらいら待っていた二週間前、大企業の
内情暴露を売り物にする情報誌、“財経往来社”に、大石建設リベート絡みの
内部告発的記事が掲載された時は、怒りというより恐怖感を大場は抱いた。
  大場は最初、この暴露記事の出処は俵副社長に違いないと思った。自分が
原田を後継社長に指名したため、取締役退任に追い込まれた上に、大石建設
から密かに受け取った一千万円のリベート小切手を、大場が俵につっ返した
からだ。あの時まではまだ四億円の退職慰労金が大場の目の前にぶら下がって
いた。
  原田康雄ならうまくその退職慰労金の件を株主総会通過させるに違いない、
そうなれば大石建設からのマル秘リベートである一千万円の端金
(はしたがね)
むしろ災いの元だ、大場はそう考えて俵文四郎にあの小切手をつっ返したのだ。
  だが“待てよ”と、大場は考え直した。俵は俺がつっ返した一千万円を
どうしたのか。もらって半年以上も経ってから、のこのこと大石建設に返しに
行ったとは考えられぬ。あの一千万円は俵本人が着服した、と考えるのが
自然ではないか。
  “それでは情報源は誰か、まさかこの俺を落とし入れるために原田康雄
本人がやったことなのか”
  大場が色々と憶測を重ねているうちに、ロンドン出発の日がやって来た。
そしてその日の朝刊で今度は“福岡自殺事件の提訴”を大場は知る。
  勲章がどんどん遠くなる恐怖感を大場は覚えた。“社員の自殺”だけでも、
非情経営者の烙印を押される恐れがある。いや、それよりも、あの時、自殺
事件を嗅ぎつけたたちの悪い総会屋に、何がしかの涙金を握らせた。その
事実が明らかになれば、端金とはいえ、大場自身も総会屋に対する利益供与
という商法違反の罪に問われるかも知れない。最近この手の事件では、
企業トップが軒並み検挙される例が多いのだ。犯罪人に勲章なんかくれる
はずはない。四億円の退職金辞退という“美挙”だけでは勲章をもらえる
確率は極めて低いのではないか、大場はそう考えて、七年前、ロンドンで
交通事故死した娘の追悼旅行という別の“美挙”を決行することにしたので
ある。 このロンドン追悼旅行は大場の方から妻の知恵子に言い出した。
大場の目にはよく見えなかったが、この申し出を聞いた時、知恵子は余程
驚いたらしい。しばらく黙っていたが、
  「あなたがそれで気が済むなら行きましょう。」
  とあまり嬉し気な様子でもなく知恵子は答えた。
  大場はそれだけで十分だった。結婚してもう四十年を超えるが、今まで
いつもそうだった。
  大場にとって知恵子は空気の様なものだった。息苦しくなければそれで良い。
大場が知恵子の事を考えなくとも、知恵子という空気はいつでも大場の呼吸を
助けるように彼の周りにくっついて動いた。息苦しくなった時、大場は深呼吸しさえ
すれば良かった。深呼吸、即ち怒鳴り散らすことである。ちょっとでも自分の気に
沿わねば一言“黙れ”と大声を出せばよい。そうすれば、すぐ元の呼吸し易い
空気に戻るのである。
  知恵子だけではない。亡くなった娘の早苗に対してもそうであった。早苗が
大場にとって清らかな空気であったのは、精々小学生の頃までだったろうか。
  周囲の人間を空気と見なす、その大場の今までの生き方は、知恵子や
早苗という家庭内だけでのことではなかった。四十七年間に及ぶ山川メタルでの
会社生活、特に後半二十年の絶対君主の時代、社員に対して、大場は家族と
まったく同じ考えで接して来た。気に入らぬ時、知恵子や早苗には怒鳴ることが
空気清浄の唯一の手段であったが、社員に対しては怒鳴ることに加えて、
左遷とかリストラを頻繁に行使することで、恐怖感というバランスの上に立った
独裁政権を維持して来た。“その天皇が一旦禅譲
(ぜんじょう)してしまったら、
まだ三月も経たぬうちにこの様だ”禅譲後、院政を敷くことを当然と考えていた
上皇が、今新天皇の一挙手一投足にぴりぴり神経をとがらせている。

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。