「史劇に学ぶ」                     白川零次著

第五回 歴史上の光と影


(前回からの続き)

  秀吉との血縁が秀長という稀有の女房役を創出したと言えなくも
なかろう。尾張の貧農を出奔して十数年、突然、小者
(こもの)姿で帰って
きて「俺の家来になれ」といった秀吉の一言で、秀長は侍への道に
入りこむ宿命を負った。生涯「俺の家来」に徹した人であった。
  歴史上、武将と参謀の名コンビは数多く出現している。劉備
(りゅうび)
孔明、チンギスハンと耶律楚財
(やりつそざい)、大山巌と児玉源太郎など
枚挙にいとまがない。しかし名女房役はどうか。しいてあげれば毛沢東と
周恩来、あるいは本田宗一郎と藤沢武夫などの名が浮かぶ。名女房役は
ナンバーワンになれる能力を内在しながら、決してナンバーワンになろう
という野望を持ってはならない。
  現代企業の補佐役や女房役である副社長は通常、虎視眈耽
(こしたんたん)と次期社長の座を狙うし、参謀格の社長室長もあわよくばと、
野望を抱いている。秀長のように純粋な女房役を今の企業に求めるのは
大変難しい。副から正へというエスカレーターシステムが日本の風土に
合っているのかも知れないが、そこには秀吉的大事業家の出現を
はばんでいる風潮がある。その意味では信長と秀吉の関係もまたしかり。
信長は秀吉を将棋の一駒としか見ていなかったし、本能寺で信長
自決後は、秀吉以下多くのナンバーツウ−達がナンバーワンへの野望
むき出しに、覇権争いをくりひろげた。
  膨張して行く太閤秀吉軍団は世の常というべきか、その晩年において
派閥争いが顕著になる。古参の武断派と若手の文治派の対立、その
調整もまた秀長の仕事だった。文治派の若者達を傲慢
(ごうまん)だと
叱りつけながら、結果的には古参の強者
(つわもの)達にも新しい制度を
守らせた。武断派は新参者が秀長に叱られるのを見て溜飲を下げ、
文治派は古参組に規則を守らせる秀長を頼りにした。
  歴史上これだけの功績を上げながら豊臣秀長の名をとどめる史料は
極めて少ない。秀吉を光とするならば秀長は影である。まばゆいばかりの
秀吉太閤記の裏に、この影の存在を忘れてはなるまい。
  けだし秀長の死後、豊臣家にとって幸せをもたらすものは何もなかった。
それまで身内や降将達を決して殺したことのなかった秀吉が秀長病死の
四年後、甥秀次とその一族を刑戮
(けいりく)したし、豊臣家没落の大きな
一因となった朝鮮出兵という愚行に奔
(はし)ることになる。影が消えた時、
その光もまた行き場を失ったというべきか。


歴史上の光と影は今回でおわりです。次回は「高度成長の壁」
をお送りします)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部卒業後、
三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン事務所長、福岡
支店長、営業部長等を歴任。1996年から執筆、講演
活動に入る。著書に『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』
『同 松本清張』『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。