「史劇に学ぶ」                     白川零次著

第六回 高度成長の壁

  「秀頼の事、成りたち候やうに…たのみ申し候、何事もこのほかに
思ひ残す事なく候」
  豊臣秀吉は瀕死の病床から、徳川家康外五大老にこの遺言状を
送った。彼の死はそれから2週間後、嫡子秀頼はまだ6歳だった。
  そして秀吉の喪を秘したまま、朝鮮半島ではなお十数万の日本軍
将兵達がきびしい戦いを続けていたのである。
  秀吉が「唐入り」、すなわち明国政略を口にし始めたのは、確かな
史料によれば天正13年(1585年)のこと、病没する13年前だ。
  その3年前には柴田勝家を破り、翌年は小牧長久手で家康と対峙
しながら、何とか外交戦略で和睦を成し遂げ、ほぼ9割かた天下統一を
達成した段階であった。
  残るは九州島津軍と小田原の後北條攻略だけ。実際、それぞれ
前者は1586年、後者は1590年にこれ等も征服、全国制覇を達成して
いる。
  秀吉がなぜ朝鮮進攻したか、古来多くの史家が論説を展開してきた。
愛児鶴松急死の悲しみをまぎらわせるためだったと、林羅山が指摘して
いるが、これに賛成するものは今では極めて少ない。
  「日明貿易再開論」はかなり有力な説だ。つまり明との貿易を再開
するよう通商の仲介を朝鮮に求めたが、朝鮮がこれを拒絶したための
出兵であるという説である。
  しかし対馬
(つしま)の宗氏や対朝貿易推進派の小西行長などは、戦地で敵と
戦いながら、密かに講和を打診している。文禄、慶長の役と2度にわたる
延べ7年間もの朝鮮出兵を秀吉がなぜ続けたのか、”貿易論”だけでは
納得できない。
  やはり巷間、人口に膾炙
(かいしゃ)されている「領土拡張説」が最有力
というべきか。ただしこの説の本義については史家によって解釈が異なる。
  「唐入り」を口にし始めた天正13年、秀吉は関白に任ぜられた。そして
高砂国やインドに、自らが「日輪の子」であると国書にしたためている。
日輪の子、すなわち太陽の子として自らを神格化したのだ。翌年突然の
”バテレン追放令”を発したが、キリスト教の一神崇拝と自らの神格化に
矛盾が生ずるのを恐れたからだといわれる。自らは”日輪の子”として、
甥の豊臣秀次を明の関白に据え、後陽成天皇を北京にお迎えするという
壮大な大陸占領計画を抱いていたという解釈である。ただしこのような
誇大妄想的発想だけで、朝鮮進攻という一大国事を決断したとは考え
にくい。

  たしかに大陸占領構想があったことは否めないが、秀吉の真意は、
論功行賞の行きづまりをかなり早くから予知していたところにあったと
考えるのが、最も妥当な解釈ではないか。
  織田信長以来、”恩賞があるからついてくる”、そういうシステムが
当時の戦国武将と武士に共通する一般的な観念であった。つまり
他領侵略→論功行賞→従属関係の持続、という循環の上に、戦国幕藩
体制が成り立っていたといえる。
  秀吉の場合、小田原攻略まではこのサイクルがうまく作動した。
ところがその後、サイクルの大前提である「他領侵略」が国内ではもはや
期待出来ないことを秀吉は予知していたのである。それが「唐入り」構想の
底流にあったといえよう。大半の武将が不承不承の朝鮮出兵だったと
いわれるが、典型的な戦国武将である加藤清正などは、むしろ積極的に
恩賞狙いで、虎退治までやらかしている。秀吉も清正も高度成長に立ち
はだかる壁の突破口を、他領ならぬ他国に求めたのである。

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部卒業後、
三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン事務所長、福岡
支店長、営業部長等を歴任。1996年から執筆、講演
活動に入る。著書に『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』
『同 松本清張』『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。