「史劇に学ぶ」 白川零次著
第六回 高度成長の壁
(前回からの続き)
我が国は日清、日露戦争によって台湾、朝鮮、南樺太(からふと)
を得た。しかしそれに飽きたらず大正5年対華21ヶ条の要求以来、
中国大陸への野望むき出しに、昭和7年の満州事変、12年の日支事変と
領土拡大政策に暴走を続けた。その結果、欧米列強との利害衝突が
生じ、昭和16年太平洋戦争に突入する。日露戦争から36年目、戦勝
体験を過信し慢心したが故の悲劇であった。
戦後の日本は高度成長期を経て、バブル経済にいたるまでの半世紀、
多少の起伏はあったが、総じて右肩上がりの経済成長を遂げて来た。
いわゆる団塊の世代層は昭和30年から40年代、貴重な人材資源として
高度経済成長の中で吸収されてしまった。一方、右肩上がりの地価と
株価は、バブル崩壊後、不良資産の公表を先送りさせた。しかもその
責任を取った経営者はごく少数である。
平成3年頃に始まったバブル経済の崩壊は、戦後日本史の中で、
最大の試練というべきかもしれない。戦国武士も現代サラリーマンも、
そのライフサイクルは極めて似かよっている。自らの年齢進捗に従って
家計負担が重くなる。バブル期までは、経営者の手腕に殆ど関係なく、
その増大する家計に応じた収入が可能だった。小田原平定までの豊臣
軍団と同じ状況だったといえよう。
朝鮮出兵は我が国に何ももたらさなかった。領土的に得るところは
まったくないまま退却したあと、多額の戦費負担による国家的疲弊と、
異国に枯れた万骨が残ったのみ。まして朝鮮の人々は侵略による国土
破壊と言語に絶する虐殺を蒙った。
再び太平の世を迎えるのは、大阪夏の陣で秀頼の自決という豊臣家
完全崩壊を、またなければならない。秀吉の死後13年目、慶長19年
(1614年)のことである。
覇者となった徳川家康は高度成長路線を踏襲せず、幕藩体制の
リストラによって、爾後二百数十年に及ぶ徳川政権の基盤を築いた。
バブル崩壊後、経済再興の道はいまだけわしい。ただはっきり言える
ことは、秀吉の朝鮮出兵や満州事変は現代の我々にとって、あきらかに
歴史上の反面教師であるということだ。侵略は悲劇以外の何ものも
もたらさない。従って侵略を誘発するような高度成長路線は、必ず壁に
ぶちあたるものと認識すべきである。
その壁を朝鮮出兵という愚行で解決しようとし、結局その夢もついえ
かけた重病の床で、たった一人の愛児秀頼の行く末を案じつつ、秀吉は
辞世の歌を残した。
露と置き露と消えぬるわが身かな
浪華(なにわ)のことは夢のまた夢
「高度成長の壁」は今回でおわりです。次回は「門前市と門前雀羅(じゃくら)」
をお送りします)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部卒業後、 |