「史劇に学ぶ」                     白川零次著

第七回 門前市と門前雀羅
(じゃらく)

  「門前市を成す」と「門前雀羅」は、完璧な反対語の関係だが、
その語源の時代背景はまったく違う。ただどちらにも一抹の悲哀を
感じさせる史実があるところが面白い。
  後漢の哀
(あい)帝は政治を外戚(がいせき)に任せきりにして、自らは
男色にふける毎日だった。そして重臣達は諫言
(かんげん)派と佞言
(ねいげん)派にわかれ、醜い派閥争いをくり広げる。
  佞臣趙昌(しょうしょう)は虎視眈々(こしたんたん)と諫言派の領袖鄭崇
(ていそう)の失脚を狙って哀帝に対し、
  「鄭崇は敵方一族と通じております。すみやかにご処分のほどを」
  と讒言
(ざんげん)した。常日なんともうるさい言諌言繰り返す鄭崇を
うとましく思っていた哀帝は、彼を召換(しょうかん)して、
  「君の門は市の如し」(へつらい客が一ぱい)
  だと揶揄
(やゆ)をこめて責め立てた。鄭崇は
  「臣の門は市の如くなれども、臣の心は水の如し」(臣の家の門には
大勢客が集まりますが、臣の心は水のように清廉
(せいれん)です)と言い、
  「
趙昌の讒言はもう一度お取り調べ下さい」
  とつけ加えた。
  しかし、門前市を成す鄭崇への嫉妬と、自分を追い落とすのではないか
という警戒心から、哀帝は鄭崇を捕縛し、遂に獄死させてしまった。
  今日、「門前市を成す」は単純に、隆盛を誇る権力者や人気者の
羽振りの良さを示す意味に使われるが、本来は上述の通り悲劇的
背景から生まれた言葉なのである。もっとも今日でも、この言葉には
やっかみの響きが残っているようだが。
  門前雀羅
(じゃくら)とは、自分の門前は雀の羅(あみ)が張れるほど
閑散としている、つまり門前市を成すと対照的な意味を持つ。
  前述の話からは二百年ほど古い前漢の時代、門前市を成したり、
雀羅を張ったり、を繰り返した役人がいた。その名をてき公という。
はじめ高官に任ぜられると、彼の面前は賓客達で満ちあふれた。
ところが免職されたとたん、閑散として雀取りの羅(網)が張れる
ほどだった。そして再び復権すると、客達が蟻の如く門前によって
来ようとした。彼は自分の門に大書した。

    一死一生  すなわち交情を知り
    一貧一富  すなわち交態(人との交わりの実態)を知り
    一貴一賤  交情すなわちあらわる。

  人情と交態がいかに悲しくも打算的なものか。中国初めての
通史といわれる「史記」の著者、司馬遷はその「汲
(きゅう)(てい)列伝」の
中で、交情の薄さを嘆いている。


(以下、次回に続く

  白川零次PROFILE

前のページに戻る

1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部卒業後、
三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン事務所長、福岡
支店長、営業部長等を歴任。1996年から執筆、講演
活動に入る。著書に『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』
『同 松本清張』『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。