「史劇に学ぶ」                     白川零次著

第八回 恒産なき者、恒心なし

(前回からの続き)
  

  民心の安住こそ王道の理想だと説く儒家思想よりも、荀子(じゅんし)
が提唱した民心は本来悪であるという性悪説を根拠として、人民を
厳しい法律によってしばるのが、君権の意地に好都合であるという
法家思想の方が、諸侯に受け入れられた。孟子と同時代に生きた
商鞅
(しょうおう)や申不害(しんふがい)の方が、各国で広く用いられたし、
やがて、その法家思想が韓非子
(かんぴし)にうけつがれて、秦による
大陸統一の心棒となる。
  秦の始皇帝の焚書坑儒
(ふんしょこうじゅ)によって、儒家は一時期、
壊滅状態になるが、紀元前二世紀、漢の武帝によって復権し、儒家
思想は国家正統の学と定められた。しかし孟子自身が高く評価される
のは、さらにはるか1300年後、宋代の朱子(しゅし)の出現を待たなければ
ならない。朱子は宇宙から人生に至るまでの一貫した儒家哲学を体系づけ、
「孟子」を「論語」、「大学」、「中庸」と同位に評価し、四書と名づけて儒学
入門の必読書とした。
  この朱子学はやがて、我が国に導入され、江戸時代、幕府によって
官許の学となる。
  第二次大戦後、儒学、特に王道政治を説く孟子は、反動的、体制派
優先の学として敬遠された時代がある。たしかに孟子は、国家の構成員を
君子(治者)と野人(被治者)に分類し、その体制維持には君子の世襲制が
必要だと説いた。孟子本来の主張である、民心を安住させるため、君子は
身を粉にして勤めよという王道政治の精神が無視ないし軽視されていた
きらいがある。
  「恒産ある者は恒心あり、恒産なき者、恒心なし」は、今この時代こそ、
政官財の指導者達につきつけられた重い宿題といえよう。
  サラリーマンにとって、恒産とは財産、もっと平たくいえば給料そのもの
である。そして恒心とは、会社生活と家庭生活を平らかに営める安心感と
いえよう。会社に対する忠誠心も、”恒心”あってこそ期待出来るはずである。
  高度成長時代、あるいはバブル絶頂期にいたるまで、業界によって、
多少程度の差はあったとしても、社員に対する給料の保証はほぼ完全に
保たれていた。たとえ25日に米びつが空になっても、5日だけ我慢すれば
間違いなく次の給料が入る。しかも齢と共に増えていく年功序列制だ。
まったく不安を覚えない”恒産”があった。会社が大企業であれば安心度は
さらに高まる。だからこそ、社員は企業戦士として、過労死もいとわず、
会社への忠誠をつくした。
  失業率5%、潜在失業率は恐らく20%超の現在、まだまだ俗にいう
リストラの嵐は吹きまくる。終身雇用、年功序列の崩壊。恒産である給料、
それどころか雇用の保証がおぼつかなくなって来た。いずくんぞ、”恒心”を
期待せん、である。
  最後を再び孟子の言葉でしめくくろう。
  「人民が餓死しても『わしの責任ではない。凶作のせいだ』とおっしゃる。
人を制し殺しておいて『わしが殺したのではない。刀が殺したのだ』と言えま
しょうか。凶作に罪をなすりつける態度を、王(政官財の指導者)が捨てた時、
天下の人民は、自然とお国に慕い寄って来るのです」。

恒産なき者、恒心なしは今回でおわりです。次回は「天命を革(あらた)む」
をお送りします)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。