「史劇に学ぶ」                     白川零次著

第九回 天命を革
(あらた)

  

  諸国遊説に立ち寄った孟子に対して、宣(せん)王が諮問した。
  「
(とう)王は夏(か)の桀(けつ)王を追放し、武(ぶ)王は殷(いん)
(ちゅう)王を討伐したというが、臣下が主客を殺してもいいものだろうか」
  「仁をそこなうことを賊(ぞく)といい、義をそこなうことを残(ざん)
申します。賊であり残であるものは凡夫以下、もちろん主君とはいえません。
凡夫以下の男である紂を誅殺したという話はありますが、主君を殺したとは
聞いておりません」
  有名な湯武放伐論で、これが中国革命思想の礎
(いしずえ)となった。
主君としての責務を果たさず、人民に見放されたものは、もはや主君に
あらず、天が命を革
(あらた)めるのだ。需来、易性(えきせい)革命と言われる
覇権争奪の歴史が、2千数百年にわたって繰り返されることになる。
  孟子の言葉の主君を社長、臣下を社員に置き換えると、我が国現代
企業のあり方を問う警句となろう。
  とまれ、この孟子に傾倒した幕末の革命思想家がいた。彼の思想が
やがて明治維新への起爆力となる。
  その思想家、吉田松陰(しょういん)は、思想というものを本来人間が
考え出した虚構である、としながら、日本国家論という偉大な虚構的思想を
編み出した。
  今日、あなたはどこの国民ですか、と聞かれれば、百人が百人とも
「日本国民です」と答えるだろう。ところが江戸時代、国といえば藩、国王と
いえば藩主であった。「身供は前田候に仕える加賀藩士でござる」のたぐい
である。最も革新的であったはずの長州や薩摩でさえ、その観念を払拭し
切れなかった。西郷隆盛も島津久光のご機嫌伺いをする事例が随所に
見られる。現代でも「あなたのお国は?」などの会話にその名残を見る。
  従って、往時、天皇を頂点として、君臣すべからく平等な日本国民で
あると主張する「日本国家論」は超藩または倒幕思想として危険視された。
それが罪状の一つとされて、松陰は29歳、安政の大獄で刑死する。
  この少壮思想家の教首は、刑死3年前に開いた松下村塾で、青雲を
志す数々の門下生に受け継がれ、醸威されて維新への道を開いた。
  明治維新は革命か?の論議は多くの史家によってなされている。
ライシャワー元駐日大使は1982年、次のように論説した。「明治維新に
おいて、日本は革命(REVOLUTION)をやらずに改革(EVOLUTION)を積み
重ねることによって、近代化に成功した」
  たしかに近代革命にはいくつかの絶対的構成要件が必要といわれる。
国体、政体、イデオロギー、この三大要素の変革がそれである。まず第一に、
絶対君主制から民主制へ、など国体の変革。第二に政治の主体の移動、
端的に政変といわれるもの。第三に、封建主義から自由主義、あるいは
社会主義へというイデオロギーの変革。
  この三要素の変革という構成要件をすべて満たす史家の側としては、
1789年のフランス革命、1917年のロシア革命などが揚げられる。
いずれも三要素がどう変革されたか、説明を要しない程、明確な近代革命だ。
(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。