「史劇に学ぶ」                    白川零次著

第一回 孫子の兵法が解くところ

(前回からの続き)

さて、しめくくりは『四面楚歌』である。この言葉は孫子七十九節の中には
出てこない。紀元前三世紀末頃、漢楚(そ)の戦いで有名な楚の将軍、
項羽(こうう)の断末魔の叫びを象徴する故事である。長江のほとり、
あと一歩で故国、楚に辿り着けるという咳下(がいか)の地で、項羽軍勢
およそ八百騎は、数万とも十数万ともいわれる漢の劉邦軍に包囲される。
ところが漢軍は容易に項羽陣営に踏み込もうとしない。夜に入り、漢軍は
追撃途上降伏してきた数千の楚軍の捕虜に項羽陣営を取り囲ませて、
「おまえたちの故郷の歌、つまり楚歌を歌え」と命ずる。数千人の祖国歌
大合唱を聞く項羽軍兵士たちは言い知れぬ郷愁と、残してきた妻子たちへの
想いがつのり、一人またひとりと漢の軍門に降っていった。夜が明ける頃、
項羽のもとに留まった軍勢はわずかに二十数名。それでも武将らしく囲みを
破って敵陣に突入した項羽は、たちまち八つ裂きにされて、三十一年の
生涯を遂げる。この戦で劉邦軍の死傷者は皆無に近かったという。もし、
あの一夜、四面楚歌を楚軍捕虜に歌わせなかったら、わずか八百騎とはいえ
死にもの狂いの項羽軍に手ひどい抵抗を受けて、劉邦軍側にも多数死傷者を
出していたに違いない。孫子の有名な金言に、百戦百勝は最善とはいえない。
最善なのは”戦わずして勝つ”ことだとある。劉邦軍が策した四面楚歌戦術は、
まさに孫子の金言を実践した事例といえよう。日本では単純に四万八百敵だらけ
と解釈されがちであるが、これだけ深い背景と意味があるのだ。今こそ
”戦わずして勝つ”経営体力を養いべき時代である。他社の追随を許さない
独自の分野、特にベンチャー的事業が勝利を収める体制の確立に期待したい。
既存の分野で既存の戦いにあけくれるようであれば、いかに百戦百勝の
つわものとはいえ、生き残りは難しいに違いない。
中国からの輸入語録を日本流に解釈、あるいは改良語化するのもよかろう。
だが、たまには中国数千年の歴史に帰って、その真義を追求するのも意義深い。
そういえば”リストラ”もアメリカからの輸入語である。1980年代アメリカにおける
バブル崩壊時期、経済立て直し戦略として生まれたリストラクチュアリング
(経営の再構築)が、日本に輸入され、リストラと省略されるに至って、単なる
”首切り”の代名詞になってしまった。ここらで”経営の再構築”という重い宿題を
経営者に課した本来の趣意を、改めてかみしめるべきでないかと思う。

「孫子の兵法が解くところ」は今回でおわりです。次回は「武将の器量・参謀の
技量」
をお送りします)
この原稿は、大坂ガス(株)が発行する「millennium」(第1号)に発表されたものを
再掲示させて頂いたものです。

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部卒業後、
三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン事務所長、福岡
支店長、営業部長等を歴任。1996年から執筆、講演
活動に入る。著書に『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』
『同 松本清張』『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。