「史劇に学ぶ」 白川零次著
第十回 革命のエネルギー
(前回からの続き)
維新の胎動期、活動期、そして実務期における指導者たちのほとんどが、
不慮の死をとげた過程は、どこかキリスト教誕生の歴史を彷彿とさせるもの
がある。
イエス・キリストが予言し、その弟子パウロやペテロが布教活動に奔走した。
そしてペテロが創設したローマ法王庁がキリスト教の教会秩序を規律化して
行く。キリストはゴルゴタの丘に刑死し、パウロとペテロは時の皇帝ネロに処刑
される。名もない殉教者は数知れない。
決してテロルを奨励するわけではないが、時の流れを変える時、あるいは
時流にさからって何か新しい母体を創造する時、流血は一種のカンフル剤と
なるのであろう。少なくとも自らを革命かと宿命づけるものは、横死の覚悟なしに
自らのめざすところを具現化することは出来ない。革命の成否にかかわらず、
常に命がけの生涯を運命づけられる。またいかに偉大であっても、一人の力で
原流を変えることは難しい。冒頭の緊迫した薩長連合盟約の史劇も、西郷と
竜馬がおたがい意気に感じ合ったがゆえの産物である。
薩長連合は必ずしも、竜馬の独創とはいえなかったようだ。巷間、いずれ
両藩は手を結ぶだろう。さすれば徳川の世をつぶせると噂されていた。ところが
双方の鈴袖、薩摩の西郷、長州の桂小五郎とも、メンツ上相手の出方を窺う
ロスタイムがじりじりと続く状況。そこにしびれを切らした竜馬が仲介役を買って
出ることになる。
薩長に遅れをとらぬよう土佐藩の焦りが、竜馬をして仲介に奔走させたという
見方もあるが、それは的を射ていまい。竜馬も松陰の思想に共鳴して、
「船中八策」を創った。そこには大政を奉還せしめ、中央集権を確立し、憲法を
制定して議会制をとり、不平等条約の改正と軍備を近代化するという革新的な
日本国家の確立をうたっている。派閥争いや藩閥意識は微塵も読みとれない。
明治維新における「五個条の御誓文」はまるで「船中八策」のダイジェスト版の
ごとくである。
竜馬や西郷の革命エネルギー、しかもそれが相互心服の上に立つと、相乗
効果をもたらす。そのエネルギーの根源は、”命がけ”の気概に尽きるだろう。
また逆に命がけだったからこそ、おたがい人生意気に感じたに違いない。
今日、その意味で平成維新は起こり得まい。命がけの指導者が現れそうに
ないからだ。
平和でよいではないか、の一言で片づけられるだろうか。国民のほとんどが
自らの、あるいは我が国の行く末に不安を抱き、救世主を待ちこがれていないか。
だが救世主が現れるどころか、政治家は党利党略に奔って国民生活の実情を
顧みず、官僚達は明治維新の遺物である有司原則を頑(かたく)なに固執して、
既得権益を死守するばかり。財界の幹部は政治家や官僚と癒着して、分け前に
あずかろうとし、社員や弱小取引業者のなりわいには完全無頓着(むとんちゃく)で
たたき切る非情さ。
今こそ明治維新を見直そうではないか。命がけでやれば、そういう指導者が
現れれば、平成革命も夢ではない日がこよう。
「革命のエネルギー」は今回でおわりです。次回は「植民地二世」
をお送りします)
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