「史劇に学ぶ」                     白川零次著

第二回 武将の器量・参謀の技量


紀元前222年、秦の始皇帝は中国大陸に初めて統一国家を樹立した。
しかし、前209年、彼の死後、息子の代になるとまもなく、各地で叛乱や
農民蜂起が相次ぎ、大陸は再び群雄割拠の乱世に陥った。
血で血を洗う戦乱の末、最終局面で漢の劉邦は(りゅうほう)と楚の項羽の
二大勢力が生き残る。当初、両者は秦攻略のため共同戦線を張るが、
三代目皇帝を隆服せしめたのちは、両雄相並び立たず『漢楚の戦い』で
雌雄を決する事になる。
数年におよぶ攻防戦の末、前202年、劉邦が項羽を制して天下を統一、
漢の高祖に即位した。その祝勝の宴で、上機嫌の劉邦が居並ぶ群臣達に
問いかける。「なぜ自分が天下を取り、項羽はそれを失ったと思うか」
「項羽は秦の三代目を追放して、その財宝を私しようとしました。高祖に
かれましては、財宝を功臣や人民に平等に分け与えられました。民心を
つかまれた高祖の徳行が、勝利をもたらしたものと思います」
群臣の一人が追従気味に言上すると、劉邦はおもむろに口を開いた。
「なるほど、だがそれは一面だけのことだ。私には三人の傑出した参謀
がいる。常に正しい戦術を練る能力において、私は張良(ちょうりょう)に
及ばない。常に兵站(へいたん)を確保する能力において、私は蕭何
(しょうか)に及ばない。100万の兵を統率する能力において、私は
韓信(かんしん)に及ばない。だが私はこれら三人の英傑を用いて、
各自の本領を十分発揮させた。これが天下を得た理由だ。項羽は
范増(はんぞう)というたった一人の良臣すら使うことが出来ず、離反
させてしまった。だから彼は負けたのだ」武将の器量を劉邦は端的に
言い当てている。敵方の戦法や戦況など、外部要因については一切
ふれず、勝利の根拠をすべて内部組織にのみ求めているところが
興味深い。これほど簡潔明瞭な組織論を実践している経営者、
あるいは論じている経営評論家がいるだろうか。勇将のもとに弱卒なし、
という。劉邦ほどの器量であれば、張良(ちょうりょう)、蕭何(しょうか)、
韓信(かんしん)などの名参謀が集まってくるのは当然だろうし、
劉邦の麾下にあって、それぞれが各自の技量をますます磨きあげたに
違いない。
しかも劉邦は三参謀それぞれに任務を与え、その範囲内で
完全に権限を委譲した。名経営者ほど権限委譲が徹底していると
言われるが、それは決して”まかせっぱなし”を意味するものではない。
『各自の本領を十分発揮させる』ことが肝要なのである。
参謀の一人
韓信(かんしん)は劉邦の人物像を次のように述懐している。
(司馬遼太郎著『項羽と劉邦
新潮文庫刊より大意を引用)

劉邦は愛すべき愚者、もっとも痴愚(ちぐ)ではなく、自分をいつでも
ほうり出して、実体はぼんやりとしている感じで”大きな袋”のようで
あった。袋は形も定まらず、袋自体思考力などなく、ただ容量が
あるだけだったが、棟梁(とうりょう)になる場合、賢者よりはるかに
まさる。賢者はそのすぐれた思考力がそのま界になるが、袋ならば
その賢者を中へほうりこんで用いることが出来る。」

(以下、次回に続く)
この原稿は、大坂ガス(株)が発行する「millennium」(第2号)に発表されたものを
再掲示させて頂いたものです。


  白川零次PROFILE

前のページに戻る

1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部卒業後、
三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン事務所長、福岡
支店長、営業部長等を歴任。1996年から執筆、講演
活動に入る。著書に『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』
『同 松本清張』『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。