「史劇に学ぶ」                     白川零次著

第三回 天気晴朗ナレドモ浪高シ

(前回からの続き)


  戦闘は一方的展開となった。七段構えは四段目で完勝に終わった。
2日がかりの戦闘だったが、実質的には27日の1日だけで勝敗はほぼ
決したと言ってよい。敵艦隊は小型戦艦数隻を残して主力艦はすべて
撃沈あるいは拿捕
(だほ)一方東郷艦隊の損傷は無傷に近いといえる
ほど軽微だった。こうして往時、世界に誇るロシア海軍を1日にして壊滅
させたパーフェクトバトルの幕が降りたのである。
  秋山参謀が加筆した「天気晴朗ナレドモ浪高シ」には、戦況の的確な
伝達に加えて、彼自身の戦闘に臨む心意気に胸打たれる思いがする。
情報の伝達は、かくあるべしというお手本といえよう。
  ”天気晴朗”は視界良好ゆえ照準を定めやすいことを意味するが、
それでは両者互角のコンディションだ。問題は”浪高シ”である。
浪高ければ照準が定め難い。お互いの砲戦能力の差が顕著に
あらわれる。連合艦隊の砲機能と砲術の技巧にかけて、秋山は絶対の
自信を持っていた。わずか十数文字の加筆電文によって、このバトルに
絶対勝つという信念を、彼は大本営に伝えたかったのである。
  秋山中佐この時37歳。年齢と兵隊の位でいえば、今の企業の
課長クラスだろうか。その一課長に”皇国ノ興廃”がかかったのである。
  日本海海戦の完勝に関しては、後世の軍事評論家がいくつかの
勝因を指摘している。専門的考察はそちらに譲るとして、私は武将と
参謀の組織的役割について考えてみたい。
  東郷長官の麾下
(きか)だったがゆえに、秋山参謀の力が十二分に
引き出せたものと思われる。また秋山参謀の力量を信じたがゆえに、
東郷という武将が自分の結果責任において、思う存分の指揮が
ふるえたといえよう。
  もう一人忘れてはならない人物がいる。山本権兵衛海軍大臣、
薩摩の人である。予備役で慎重派と評されていた東郷を連合艦隊
司令長官に任じた。それだけでなく、薩摩出身者偏重の軍閥人事を
リストラし、適材適所政策を断行して、”薩の海軍”から”日本の海軍”へ
脱皮させた。
  秋山真之は伊予松山久松藩の出。佐幕藩だったがゆえに、明治維新
以後、冷遇されていた。にもかかわらず山本海相は秋山の才能を
見込んで、東郷の作戦参謀に抜擢した。この英断人事が日本の危機を
救ったことになる。
  日露戦争についての功罪、あるいはあの戦争は本当に日本の勝利と
いえるかなど、昭和に向けて多くの課題を残している。その点については
別の機会にゆずるとして、ここでは連合艦隊の解散式における秋山真之が
起草した式辞の一部を紹介しよう。
  「神明はただ平素の鍛錬に力(つと)め、戦わずしてすでに勝てる者に、
勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して、治平に安ずる者より
ただちに之を奪う。古人曰く、勝って兜(かぶと)の緒を締めよと」。
  兜の緒を締めるどころか、日露戦勝の驕(おご)りと過信から、この
40年後、我が国は
太平洋戦争とその敗戦という昭和最大の悲劇を
招来する。秋山真之の警報は昭和の軍部の耳には届かなかった。
天気晴朗ナレドモ浪高シは今回でおわりです。次回は「日露戦勝の功罪」
をお送りします)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部卒業後、
三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン事務所長、福岡
支店長、営業部長等を歴任。1996年から執筆、講演
活動に入る。著書に『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』
『同 松本清張』『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。