「史劇に学ぶ」                     白川零次著

第四回 日露戦勝の功罪


  日露戦争に日本は本当に勝ったといえるのか。この点をいくつかの
視点から考察してみたい。
  個別のバトル毎に考える場合、まず日本海海戦では東郷艦隊の完勝
だったといえよう。陸軍はどうか。たしかに奉天
(ほうてん)までは押しこんだ。
しかし苦戦続きで死傷者は6万に達した。もし戦いがあと数ヶ月も続いたら、
苦境に陥っただろうし、惨敗の可能性すらあっただろう。兵員と兵站
(へいたん)
の補給力でロシアは圧倒的強みを見せたに違いない。
  戦闘という意味でとらえれば、日露の勝敗は五分五分ではなかろうか。
しかし戦闘は国家の外交戦略の一手段であって決してすべてではない。
不幸にして戦争状態に突入すれば、勝つことが望ましいが、戦争を仕掛
けたり、継戦することが国家の目的であってはならない。
  孫子には「百戦百勝は最善にあらず、最善は戦わずして勝つことだ」
とあり、尉繚子
(うつりょうし)も「戦争は万やむをえず行うもの」と指摘する。
1900年
初期の外交戦略として、日露戦争を時の指導者達はどう位置
づけていたのだろうか。
  明治政府と軍部は日露開戦以前から、終戦の落しどころをわきまえて
いた。決して”欲シガリマセン勝ツマデハ”ではなかったのである。
アメリカに金子堅太郎、イギリスに末松謙澄を派遣し、開戦前に講和の
仲介役を打診させた。日露戦争をやむ得ざる外交手段の一つと考えて
いたのである。ただし講和条件を有利に導くためには、一時的にせよ
戦況を優勢にしておくことが望ましい。
  我が国にとって日本海海戦の完勝がそれであった。この機会を
おいて講和の有利なタイミングはあり得ない。煮え切らない政府に
対して、「早く戦争を終わらせてくれ」と、満州の戦場を離れて東京に
まで陳情にかけのぼった陸軍軍人がいた。児玉源太郎総参謀長である。
昭和の陸軍では想像もつかない、先送りごめんの決断だったといえよう。
  そして舞台はアメリカのポーツマスへ。ルーズベルト米大統領の仲介
により、小村寿太郎VSウィッテという日露両国きっての辣腕(らつわん)
外交家が、およそ3ヶ月かけて丁丁発止とやりあった。日本海海戦や
203高地も戦争ならば、このポーツマス舌戦も激戦ではないか。
  ポーツマス条約の成果は、樺太
(からふと)南部の割譲、朝鮮支配の
ロシア黙認、旧満州権益の一部譲渡に要約される。開戦前のトータル
外交の狙いから考えて、この三条件獲得は、ほぼ満足の行く結果だった
といえよう。
  ところが国民の世論は憤激
(ふんげき)にわいた。三国干渉以来の
屈辱条約!新聞が報じる”連戦連勝”という麻薬的文字が、国民をして、
ハルピンに進撃せよ!ウラジオを占領せよ!賠償金をとれ!小村は
売国奴だ!の罵詈雑言
(ばりぞうごん)となり、日比谷焼討ち事件にまで
発展する。
  軍部が講和を望んでいるのに政府が国民感情に戦況の不利を
知らしめなかったからである。これ以上、我が国に続戦余力は残って
いなかった。にもかかわらず威勢のよい掛け声だけが報道されたため、
国民感情を驕慢
(きょうまん)な方向へ煽(あお)ってしまった。もっとも
この点は同情すべきところもある。有利な講和条約交渉のため、
国の弱みをロシア側にさとられたくなかったのだ。

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部卒業後、
三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン事務所長、福岡
支店長、営業部長等を歴任。1996年から執筆、講演
活動に入る。著書に『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』
『同 松本清張』『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。