「史劇に学ぶ」                     白川零次著

第五回 歴史上の光と影


  「川向こうに城が要る。誰ぞおらんか……」、
  長良川向こうの美濃斎藤氏政略で三度目の敗退にいらだった信長が
命令口調でどなる。
  居並ぶ武将達のはるか末席から、すぐさま
  「恐れながら、それがしが……」。
  という甲高い声がした。
  「おお猿か……よし、お前やれ。場所は墨俣
(すのまた)がよかろう。
すぐにかかれ」
  その日、藤吉郎(秀吉)の帰りを待つ小一郎(秀長)はまたもいやな
予感を覚えた。
  「というわけじゃ。小一郎たのむぞ」
  敵前での築城命令である。決死というより無謀というべき作戦だ。
しかし秀長は笑ってこたえた。
  「当然じゃ、兄者がやるならやろうじゃないか」。
  かくして秀吉をして天下人まで昇らせる濫觴
(らんしょう)となった「墨俣の
一夜城」の完成を見る。予想道り斎藤勢の猛攻を防戦しながら、数十日
かけての命がけの築城だった。
  築城の指揮と防戦隊の指令はあくまでもナンバーワンである秀吉が
とる。秀長の使命はその指揮命令に従って、工夫や兵員や築材の調達と
部下達の苦情処理だ。決して秀吉の則
(のり)を越えてはならないし、
またその則を絶対に死守しなければならない。
  築城中はもちろん完成後も、仲間同士のいさかいや給金の不満が
頻発する。これ等の調整を秀長は小まめに誠実にこなした。また築城の
ための膨大な木材を、一旦上流に運び上げ夜陰に乗じて下流に流し、
墨俣で荷揚げという巧妙な手法で、秀長は秀吉の築城指揮に支障を
来さぬよう、調達使命を果たした。
  世にナンバーツーという立場には、参謀、補佐役、女房役などの
存在が考えられる。現代企業でいえばそれぞれ参謀は社長室長、
補佐役と女房役は副社長あるいは専務取締役といったところか。
  秀吉には多くの参謀がいた。中でも戦術参謀としての竹中半兵衛、
智略参謀としての黒田官兵衛が有名だ。
  豊臣秀長は参謀ではない。参謀であればナンバーワンの異父兄
(実兄との説もある)秀吉に対して自分の策を具申する。斎藤氏を完全
攻略出来たのは「周辺家族から調略すべし」という竹中半兵衛の忠言の
結果であるし、有名な「中国大返し」を進言したのは黒田官兵衛といわれる。
  だが名参謀必ずしもつねに名戦術を提言するとは限らない。恐らく
半兵衛にしても官兵衛にしてもいくつかの判断違いはあっただろう。そういう
誤った助言で重大事態を招いても、その責任は参謀ではなくそれを採択した
ナンバーワンがとるべきである。
  しかし女房役はそうは行かない。自分の意見であれ他の参謀の意見で
あれ、武将の決断には従わねばならないし、また武将と連帯して結果責任を
とらざるを得ない立場にある。その意味で豊臣秀長は武将秀吉に対する
典型的な女房役だったといえよう。また決して補佐役にとどまってもいない。
  つまり武将の則を越えないとはいえ、則の範囲内に縮こまるのではない。
秀吉の天下取りに関わる三つの重大な戦い―天王山、賤ヶ岳
(しずがだけ)
小牧長久手
―ではすべて一方面軍の総大将をつとめたし、最大の功労者
だったとも言えよう。ここが単なる補佐役との違いである。野球でいえば
キャッチャーの立場か。守りの時は主役であるピッチャーをうまくリードする
とともに、攻撃面では自らのバットで得点をかせがねばならない。

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部卒業後、
三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン事務所長、福岡
支店長、営業部長等を歴任。1996年から執筆、講演
活動に入る。著書に『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』
『同 松本清張』『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。