地方史資料の紹介(No.4)

「箱根御関所日記書抜 上・中・下


  本書は、京・大坂と江戸を結ぶ交通の要所である東海道箱根関所の
江戸時代に書かれた公用日記を抜粋したものである。箱根関は開設年代は
不明だが,1600年(慶長5)にはすでに存在した。箱根宿東隣の現在の関所跡
に設けられたのは1619年(元和5)である。初期の規模は不明。1685年(貞享2)
番頭・横目など侍4,定番人3,足軽11,中間2,武具として弓5,鉄砲10など,
役人はすべて小田原藩士(大久保家の先手11組という者から交代で詰める)
定番人の居付き手当は幕府支給であった。
(以上「世界大百科事典」による)
  平安時代の東海道が著作に現れるのが「伊勢物語」及び「更級日記」
である。時代が下って鎌倉時代は通信機関が発達し飛脚制度が出来、
東海道も従来より整備されて、普通旅行者が利用出来る様になった。
(海道記)
この時代には、まだ、箱根路は開かれていなかったが、793年(延暦21)
富士山の噴火により足柄路が使用不能になり箱根路が開かれた。その後
足柄路が再開されたが、箱根路もそのまま使用されることとなった。
  江戸時代に交通の要所になった東海道は、伝馬、宿駅、関所、渡船
などが指定されたのに伴い、江戸を中心とする五街道のうちでも、より充実
する街道となってきた。なかでも幕府の中心地”江戸”の治安維持をする
ための重要な場所として”箱根関所”は、最も力を入れたものであった。箱根
関所は険しい山が海岸まで迫っていて、関所を避けて通れない最も立地
条件の良い場所であったといえよう。
  正徳元年の觸書による”箱根関所高札”を次に紹介する。
(新漢字で表示)

    一 関所を出入輩笠頭巾をとらせて可通事、
    一 乗物にて出入輩、戸を開かせて可通事、
    一 関より外へ登る女は、倶に証文に引合せ可通事、
        附、乗物にて登る女は、番所に女を差出して可相改事、
    一 手負死人並に不審成るもの証文なくして不可通事、
    一 堂上の人々諸大名の往来、兼てより其聞あるは沙汰に不及、
      若し不審のことあるに於ては、誰人に依らず相改むべき事、
    右之條々厳密に可相守者也、仍て執達如件、
      正徳元年五月  日                 奉  行

  幕府老中からの觸書であることから、関所の役人は遠慮なく何人でも
取調べる特権を得た。このような背景による”関所日記”であることを
念頭において見てみることも必要であろう。
  1707年(宝永4)11月12日の富士山の噴火を、”暮六ツ時より夜中度々
地震……夜ニ入黒キ砂少し降、尤同日申ノ刻頃富士山焼、黒煙御番所
より見候、火之手も見申候、……”と記録している。この後、11月23日の
「徳川実記」によると”けさ未明より府内震動をびただし。はたして駿河の
富士山の東偏火もえ出。砂灰吹出し。近国の田圃みな埋没せしとぞ
聞えし。”と幕府中央にも富士山の大噴火があったことを伝えている。
この噴火で江戸にも降灰があったが、特に武蔵、相模、駿河などでは
噴火による降灰で田畑が埋没し、農作物に与えた被害は極めて大き
かった。翌年の宝永5年閏正月16日に”救洫の為、諸国高役金を賦課”
することを幕府は命じ、この年の米価も高騰している。この噴火の
75年後には浅間山の大噴火が起き、同じように多くの被害が関東地方に
生じている。この富士山の噴火の前月には、わが国最大級の地震の
ひとつ”宝永地震”も起きている。
  1730年(享保15)11月15日江戸城大奥女中が関所を通過する事に
ついての知らせが来ている。この女中を老中と同様の扱いをする事、
乗物(駕籠)は規則通り戸を開けて人見女が行う事、髪の毛も規則通り
行う事、乗物の中も規則通り行う事、など事細かく書かれている。箱根
関所が如何に厳しい取調べを行っていたかが判る。
  1748年(寛延元)4月6日朝鮮使節が箱根関所を通過している。
記帳されている人数は総勢360余名である。小田原から助っ人が何人か
来るようだ。この後、14年後の1762年(宝暦12)3月22日にも来朝し
この関所を通過している。
  1758年(宝暦8)11月18日お家断絶になった本多長門守の家来が
本多長門守家来一行12名を通過したい事について通知が来ているが、
”手嶋文太夫印形之通証文、岩村藤蔵と申者持参”したが、小田原の
役人から通過する事は難しい、と記帳されている。
  1766年(明和3)6月17日不審者忠蔵という者が入水自殺をした。
刀を差していることから、”畠山下総守家来、真木忠蔵”である事が
判明した。この者は、江戸表に出立する際”通行手形”を紛失した事が
自殺の原因のようだ。忠蔵の死骸を検死後、桶に入れて借埋葬をした。
この一件は、入水自殺ということから死骸の取扱いについて、翌年4月迄
解決されなかった。
  1780年(安永9)2月21日関備前守の家来が通行手形を持たないで
通過させてほしいとの申出があった。乱心者として処理された。
  1807年(文化4)4月8日オランダ人が関所を通過しているが、
オランダ人の通行については、幕府あるいは長崎奉行から都度書状が
来る事から、特に問題なく通過させていた。この後、1832年(天保3)
4月11日にもオランダ人が通事を伴って通過しているが、1800年以降に
おいては、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、などオランダ以外の国が
日本との外交関係を樹立しようと働きかけていた事もあり、オランダ人の
行き来について、本書に抜書きされていないものも相当あるのではないかと
思われる。
  以上の通り、箱根関所は、自然災害を近くに経験し、政府要人、大奥
関係人、大名、外国人など数多くの人間が通過しており、与えられた権限が
どの様に行使されたか、この日記を見ると興味深いものがある。日記が
書かれた背景をもっと突き詰めて研究すると、より面白いものとなるで
あろう。
(池田)

(箱根古文書を学ぶ会編、昭和58年、箱根町教育委員会)

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