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地方史資料の紹介(No.5)
「豊橋市史々料叢書 吉田藩日記」
「新編藩史総覧」(秋田書店)によると、天正18年(1590年)から慶長5年
(1600年)まで池田輝政が領有したが、吉田藩は、その後武蔵八幡山より
松平家清が封ぜられることにより始まったとしている。東海道の要所にある
ことから譜代大名として居城を構えている。文化2年武鑑を見ると、松平
伊豆守信明は天明8年に”従四位侍従”を賜り、井上河内守正定の妹を
正室に迎えている。このときは、7万石となっている。
本書は、慶応4年(1868年)正月から明治4年(1871年)8月までのおよそ
3年8ヶ月に渡る日記である。日記を記帳した人は、藩主の側近である役人と
推定される。内容は、藩の公事にみならず藩主家族の私事にまで及んで
いることから”御側日記”という性格が強い。明治4年7月以降の記事が急に
減少しているのは、藩主が豊橋藩知事を免官されているからと思われる。
この日記が書かれた時期は、幕末・明治の一大動乱期であり、譜代大名
であることから討幕軍の征東に際して、その一翼を担ったため、勤皇と佐幕に
挟まれててしまった。
日記の始まりである慶応4年は、9月8日に明治元年に改元している。
従って、1月1日から9月7日までは慶応4年である。もっとも、江戸における
上野彰義隊の戦いは5月15日である。また、”江戸”を”東京”に改めたのが、
7月17日である。この日記では、5月13日に”御一新”という言葉が使用されて
いる。まだ、彰義隊の戦いが始まる前にもかかわらず、既に使用していた
のである。5月16日には、政体が変革になることが記されている。8月12日に
”菅沼左近将監”が先年外国へ行っているとのこと。11月20日には議定長岡が
藩内を通行するために旅館へ無事案内したことを記している。11月23日、
榊原大納言(柳原?)が藩内を通行し、宿泊することを記している。
明治2年3月25日付老中から、東海道を含む諸街道の宿場に目安箱を
設置することとした、と布達された。4月5日目安箱が出来上がったので
吉田宿に届けられた。また、目安箱に関する”御入用書上帳”も同時に作成
された。
明治2年4月9日付軍務官から、吉田藩が騒動、戦争などに出兵した時の
状況(いつ、どこへ、何人の兵隊を、戦死者、戦傷者、など)を報告するように
との布達があった。
明治2年4月25日、徳川慶喜の謝罪について記述している。慶喜の処分と
家名の取り扱い及び相続人と禄高をどのようにするか、議論しているようだ。
明治2年正月、大庄屋2名に対し苗字帯刀を許している。この時代は、明治に
改元されていても中身はまだ、江戸時代の続きであった。諸般が船舶の買入れ
について外国と直接交渉をする場合の注意を行っている。日本では売買に
関する契約方法が不明確であったことから、このような布達が行政官から
出されたのであろう。主要な街道に設置されている関所の廃止が行政官より
布達された。贋金が横行しているので検査のため、所持金を持参するように
呼びかけている。東京市内に外国人居留地を定めたが、手狭になったことから
川筋を境界に定めた旨、行政官より布達された。
明治2年4月24日、三条(実美?)卿の御口達の写しが一橋大納言から回状
されてきた。明治維新の折、天皇から詔勅を受けたが、諸侯においても力を
合わせて朝廷のために協力してほしい、とのことであった。
明治2年5月、新貨幣が発行されるまでの間、金札(紙幣?)の発行について、
布達している。これに違反したものの罪科についても併せて定めている。刑部省が
設置されたのが、この年の7月8日のことであるから、それまでは各藩へは布達に
より刑罰の程度を決めていたようだ。紙幣を発行したが、正金(貨幣?)を
新たに発行した紙幣に交換するものが極めて少ないため、6月に入って行政官より
布達を出した。各府藩県は、石高に応じて正金を紙幣に交換すること、府藩県内で
紙幣と貨幣を同等に流通させること、などにより府藩県民を説得して紙幣をより多く
使用させることであった。一般民衆の間では、紙幣の価値が貨幣と同等であるという
新政府の意図を、
理解することは困難であったようだ。なぜなら、
長い間の貨幣
一辺倒の習慣及び政治の混乱状態、内戦などがあり、紙幣を信用する基礎が出来て
いなかったからであろう。
吉田藩士のうち、藩を脱藩して彰義隊に加盟していた5人について、死をもって
謝罪をしたい旨、申出があった。ただし、4月15日には新政府は、脱藩者に対して
復権措置を定めている。
明治2年5月9日、吉田藩から会津藩へ脱走し戦争に参加
したたものを、千住駅宿で引き渡すので受取に来るようにとの、軍務官からの布達
があった。
脱藩者が旧幕府側へ応援に手を貸したものが多くいたことは、本書でもいくつかの
個所で記載されているので明らかだ。5月19日には、脱藩者のうち出生が明らかな
ものについては、本人が在籍していた藩に引渡す事とするので、教育を施して
産業で働けるようにしてほしい旨、民部官から布達があった。
明治2年11月、太政官布告で、新貨幣を鋳造するに当たり、各藩に無用の銅製
大砲があれば相当の代価を持って買い上げることを布達している。旧幕府時代に
輸入していたが、新政府に移っても銅の不足の状況は変わらなかった。いくらで
買上げたか、どの位の量が調達できたかは不明である。
以上、目に付いたものだけをピックアップした。また、書かれている氏名、役職等
確認できないものが多くあったが、ここでは確認しないでそのままにさせていただいた。
公用日記としては他の資料と比較して相当詳しく書いているようである。(池田)
(豊橋市史編集委員会、昭和55年)
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