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地方史資料の紹介(No.6)
「横浜市史稿」(風俗編)
横浜市では、横浜市役所が昭和6年から8年にかけて「横浜市史稿」を編纂した。
「横浜市史稿」は、全部で11巻刊行されている。現在我々が図書館などで閲覧できる
「横浜市史稿」は、初刊本が入手困難になったため、昭和48年に刊行された復刻版
である。本書が刊行された昭和初期の横浜は、まだ明治・大正の香りが幾分残って
いた時代である。しかし、本書の中に紹介されている色々な出来事、風俗、地誌、
などは本書が刊行される50年以上前のものがほとんどであり、どちらかといえば
旧幕府時代の色彩が強いものとおもわれる。横浜は、黒船が来航するまでは小さな
漁村で日本全国どこにでもあるような静かで簡素な村であった。それが急転直下
外国との貿易港として脚光を浴びることになったのである。異国文化の街としては
古くから長崎が有名であるが、横浜は神戸と並んで幕末以後に外国との貿易により
急激に発展した町である。従って、街の様相は異国文化を十二分に生かした街造りが
できたと言えよう。このような中から生まれた横浜の風俗は、異国情緒たっぷりの
色彩を帯びている。
ここでは、スペースの都合で全巻紹介することはできないので、”風俗編”に限定
してみたい。
本書では、写真資料として68ページにわたって幕末から明治初期までの挿絵、
写真、などをまとめて紹介している。目次は次の通りになっている。
第1章 市井風俗 第7章 ちゃぶや(茶巫屋)とらしゃめん(洋妾)
第2章 市の繁栄 第8章 花街
第3章 歌謡 第9章 居留地風景
第4章 名物 第10章 横浜言葉
第5章 娯楽 第11章 文明源流
第6章 私娼と銘酒屋 挿図
第1章は、物見遊山
として”桜”、”桃”、”梅”など横浜だけでなく日本人共通の
花見がある。今と違って、娯楽としての楽しみのうち最もポピュラーな遊びであった。
落語などでもお馴染みである。外国人居留地を抱えていた横浜には、外国人たちの
海水浴が明治初年頃から行われており、”水泳倶楽部”もあったという。有料の
海水浴場(山下水浴場)ができたのは、明治23年になってからである。
第2章は、
大正9年から始まった
開港記念バザー
がある。この行事は、他府県では
例を見ないものとして横浜名物バザーとして取り上げられた。ちなみに明治17年に
鹿鳴館で、大山(巌)参議の夫人、伊藤(博文)、井上(馨)両参議の令嬢主催の
大々的なバザーが開催されている。縦覧切符を3千枚発行したという。
第4章は、横浜名物
が旧幕府時代からの幹線道路”東海道”が、主体になろう。
紹介されている初めの5件が鶴見である。最初は鶴見の梨である。梨は、享保の頃
鶴見橋の上流左岸に植栽したものだという。昭和初期に川崎市郊外で取れたという
川崎梨は鶴見梨を移植したものである。2番目が、しがらき茶屋の梅漬である。この
茶屋は「江戸名所図会」にも見えているが、明治初年になくなった。3番目は、覇王樹
(さぼてん)茶屋である。さぼてんは、日本では貝原益軒の《和爾雅(わじが)》(1688)に
出てくる覇王樹(はおうじゆ)(トウナツ)が最初の記録で,ウチワサボテンのオオガタ
ホウケン(大型宝剣)Opuntia maxima Mill.(イラスト)と思われる。ウチワサボテン以外は
天保(1830‐44)以降に渡来した。(「世界大百科事典」より)4番目は、苦楽丸。寛永18年の
創製で、咳の特効薬として300年来の名声を続けた薬である。5番目は、よねまんじゅう。
これも「江戸名所図会」、「新編武蔵風土記稿」にみえる名物の一つである。明治期に
一時廃ってしまったが、大正に入って復活した。6番目は、生麦の蛇の目茶屋。この
茶屋は、外国人の需要に応ずるため、西洋酒の瓶を並べてあったという。7番目は、
若菜屋の亀の甲煎餅。8番目が神奈川本覚寺黒薬。9番目が神奈川鯛。10番目が
保土ヶ谷境木のぼたもち。幕末に開港するまでは半農半漁であった横浜は、新興として
して形成されていったが、横浜名物といえるものは多く生まれなかった。野毛浦の
海苔(本牧海苔)と鰻の蒲焼、釣鐘煎餅、喜楽煎餅、姿見煎餅、(鈴木の格言せんべい)、
長者町の一文菓子問屋・一文玩具問屋、花売娘と背負びくさん、過ぎたのいりなまこ、
などがある。
第5章は、娯楽
である。従来娯楽といえば演劇であったが、横浜は外人劇場
”ゲーテー座”があった。居留地に建築されたが、何時できたかは不明。また極めて
小規模ではあるが、”支那劇場”というのもあった。寄席、活動写真館、見世物、角力、
曲馬などがあった。
第6章は、私娼と銘酒屋
である。私娼は、徳川時代より以前から行われていた
売笑婦である。時代が明治維新により変化したとしてもこの制度はほとんど変わらな
かった。横浜においては、”日本街”という独特の形で生まれ変わった。日本人相手の
私娼は、その後風紀の取締りにより多くは廃止されていったが、一部は貸席名義で
残ることとなった。一方、元町付近の外国人相手の私娼を取り締まる為、明治元年
5月神奈川県布達で禁令を発した。しかし、外国人居留地内での私娼については、
治外法権であるため取締の対象外であった。ところが、明治5年6月におきた”マリア・
ルズ号事件”(横浜に入港したペルー国汽船に起こった清国人船客に対する虐待行為)
により、外国人が妾を取る場合、吉原町樓主の鑑札を必要としなくなった。自由に
なったのである。
第7章は、
ちゃぶや(茶巫屋)とらしゃめん(洋妾)
である。”ちゃぶや”とは、外国人
専用の私娼窟のことである。旧幕府は治安上の問題から、外国人の行動範囲を”遊歩
区域”として設定し、その沿道に民家13軒の休憩所を設置した。その後、これらの
休憩所とは別に”もぐり”の休憩所が造られるようになったが、これが”ちゃぶや”の
始まりである。ちゃぶやは明治10年頃には30軒を数え、明治25年頃は60軒に及んだ。
”らしゃめん”の起源は、九州長崎の歴史に古くからあり、寛永・元禄の時代に遡る。
ただし、”らしゃめん”の語源は、横浜開港後のことと思われる。安政6年横浜開港後は、
”遊女にして外国人に関係するものを、異人女郎又はらしゃめん女郎と云ひ、遊女に
あらざるものにして制規上妓樓の名前借は、単にらしゃめん”と称した。文久2年5月、
幕府は、外国人と日本人との間に生まれた子供の取り扱いについては、日本人女性の
承諾を得れば、外国人として外国人男性と海外へ行くことができるようになった。従来は
すべて日本人として取り扱われ海外へ行くことは禁じられていた。日本人女性と外国人
男性が正式に結婚することが認められるのは、明治6年3月14日の太政官布告(第103号)
による。
第8章は、花街
である。横浜に遊郭が建設され開業したのは安政6年6月である。
その後火災による焼失、場所の移転などを繰り返した。旧幕府時代は、幹線道路である
東海道の宿、神奈川及び保土ヶ谷には遊郭が既に存在した。
第9章は、居留地風景
。外国人が多く居留するようになれば、住宅・商館が建築
される。横浜においても、異人屋敷といわれる建物が多く造られた。”どんたく風景”の
項目に”どんたく”の語源についての記述がある。オランダ語のZondagであることは、
多くの書物にもあるが、”和製の横浜言葉”であるという。文久3年刊の「横浜開港
見聞誌」および「横浜奇談」にでてくる。外国人の商館や異人館に雇われる日本人を
”屋敷者”といったが、全盛期は明治初年から20年くらいまでであった。横浜といえば
”中華街”であるが、日本へは江戸時代に長崎に”華僑”が進出し、その後神戸にでき
そして横浜に”中華街”の前身”南京町”ができた。
第11章は文明源流
。ここに日本初の”野球の渡来”がある。明治6年鉄道寮技師
平岡熙が米国から帰国した際、”1本の棍棒と3個の硬球”を携えたものを、平岡が
師範役となって新橋駅勤務の同好者を募って倶楽部を組織したのが始まりである
という。
以上、大雑把に紹介したが、930ページに及ぶもので歴史の教科書を見る思いが
する。読み物としても、また、事典としても、興味のある項目がたくさん並んでいる。
神奈川県の図書館には所蔵されていると思うので、是非一読願いたい。(池田)
(横浜市役所、昭和7年
(昭和48年復刻)
)
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