地方史資料の紹介(No.7)

「七ヶ宿町史 資料編

  七ヶ宿町は、宮城県刈田郡にある町で、位置としては宮城県南部に
当るが、福島県北部及び山形県南部に隣接している。七ヶ宿町は七ヶ宿
街道が古くから開かれていた事から、関という宿場町として太平洋側と
日本海側を結ぶ交通の重要な町として栄えた。しかし、明治中期になって
太平洋と日本海を結ぶ鉄道が開通したため、この街道もその使命を終え、
同時に町も次第に衰退していった。
  この資料集は、徳川幕府が開かれる前の戦国時代から明治・大正時代
までのものを集めている。目次を紹介しよう。
  1.伊達家と縁の深かった中世
  2.関ヶ原の後で緒戦を飾った七ヶ宿の野伏たち
  3.仙台藩、宮城県の領域をきめた境論
  4.藩境を固めた番所
  5.街道、宿場の変せん
  6.紀行文に描かれた七ヶ宿
  7.人々の往来
  8.荷物、手紙の往来
  9.政治と社会
  10.寛永検地帳と高人数御改帳
  11.重かった税金
  12.村の産業
  13.さかんだった鉱山開発
  14.村を襲った災害
  15.戊辰戦争の方向をきめた関本陣会談
  16.明治の教育と村政
  17.七ヶ宿の地誌
  18.湯原騒動太平記
  この町が、武将”伊達正宗”と縁が深かった事は、本書でも古文書に
紹介されている通りであり、また、墳墓も湯原東光寺にあるという。
  戦国時代の慶長5年”山中軍記”又は”白石軍記”と言われている古文書
によると、白石攻めに際して、七ヶ宿の野伏が、上杉方に徹底して抗戦した
活躍ぶりが描かれている。本資料は10頁に亘って関ヶ原の戦いぶりが紹介
されている。
  仙台藩の領域は、伊達正宗の晩年寛永11年(1634年)、陸奥60万石、
近江1万石、常陸1万石、計62万石と決まった。大藩であるため、その境界は
一挙に決定したわけではなかった。北は何部藩、南は幕府直轄領伊達郡
茂庭村との間で境界論争があった。山地における境界設定の基準は、
「水落ち境=峰通り」を原則とした。この原則が守られなければ、当然境界
論争は起こった。本書では、境界論争が幕府評定所で解決したときの
「湯原御境論留」が和様漢文で37ページにわたって紹介されている。文書の
中では、寛文7年から争われた経緯と、どのようなことが論点になっているか、
事細かに記載されている。仙台藩が勝訴した大きな要因は、金山の運上金
(税金)を仙台藩に収めたことによるという。この境界論争は、明治に入って
からも起こり、やはり宮城県に所属することとなっている。
  紀行文では、七ヶ宿街道をどのように表現しているのだろうか。江戸の
町人”津村淙庵”が書いた「雪のふる道」は、雪国の生活ぶりを画と共に
見事に描いている。また、弘化2年秋元藩が上州館林に所替えになったおり、
家臣山田喜太夫の妻音羽子は、七ヶ宿街道を通ったことについて、「お国替
絵巻」に画と歌と文で書き綴った。女性らしい細部に渡って気が付いている
ことが良く表されている。その他「奥州紀行」(富田伊之
(これゆき))、「東遊雑記」
(古川古松軒)、「野合日記」、「安政紀行」など、七ヶ宿の部分が紹介されて
いる。
  文化6年、関の最上屋主人が庄内藩士坂尾儀太夫に無礼討される事件が
起きたが、その時の資料が載っている。無礼討は江戸時代に武士に認められた
権力行使の一つで、最も有名なのが薩摩藩士が起こした”生麦事件”であろう。
  この街道は、出羽国の山形藩、米沢藩などの諸藩が江戸へ参勤交代などで
行く場合、あるいは、蝦夷地(北海道)への交通に、必ず通過する道であった。
その場合の人馬がどのくらい使用されたか記録されている。場所が場所だけに
行き倒れも多く発生している。
  幕末に近くなって、仙台藩は打ち続く凶作、年々の人口減少に対応するため
”赤子養育制度”を定めた。内容は、貧困にあえぐ農民への養育料の支給、妊娠・
出産の調査、そして説諭である。また、冥加金(税金の一種)は極めて重いもので
あった。東北地方の租税については、「青森県租税誌
(上・中・下)」(みちのく双書
第11〜13集、青森県文化財保護協会版)に項目別に詳しく記述されているので
参照して頂きたい。七ヶ宿の生業の第一は”宿駅”であるが、第二は”山林”である。
徳川幕府から明治政府に変っても、山林は重要な産業の一つであった。本書では、
国有林を自由に利用させて欲しいとの嘆願書を明治政府に出している。
  山間地であるがために飢饉、自然災害についての被害も多く発生した。戊辰戦争
の際、この街道は、重要な拠点となった。滑津の肝入検断安藤太郎左衛門が書き
留めた「会津追討方御用永留」は、戊辰戦争時の宿場の動きを詳細に記したもの
として貴重な資料といえる。
  以上、簡単に紹介したが、山間の小さな宿場町でありながら、戦略上重要な
場所として維持されてきた。時代の趨勢には勝つことができなかったが、しかし、
時代に取り残されたが故に、多くの史料を今に伝えることができたのではなかろうか。
地方には、まだまだ世に公表されていない埋もれた資料が多くあることを物語って
いる。(池田)

(七ヶ宿史編纂委員会、昭和53年、七ヶ宿町)

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