「神戸の本棚」                 植村達男著

第二十五回 旅と活字


  昭和55年11月25日から約3週間、仕事でアメリカ合衆国を旅行した。
成田発18時(JL-062)ロサンゼルス行の機内では松坂元『遥かなる隣国
アメリカ』(昭和55年9月・講談社)を読んだ。「保険金で儲ける方」という章は
興味深かった。殺人未遂と放火罪で起訴された医者、4年間にけがや
自動車事故、盗難や中毒で十万ドルの保険金を保険会社から搾取した
牧師等々、保険を利用した詐欺事件は日本の比ではないようだ。また、
勉強の方は箸にも棒にもかからない連中が圧倒的に多い大学フットボール
選手の内幕を綴った「フットボール特待生の優雅な生活」等の章も
面白かった。
  ロサンゼルスからシカゴへ行く便では「季刊中央公論・経営問題
冬季号」を読んだ。この号は自動車産業を特集として組んでいる。
仁平由紀夫「六大メーカーの国際戦略を探る」は印象に残った。ところで、
特別読物「ベンデックス社美人副社長の失脚」(牧野拓司)は、やや興味
本位なアプローチであったが、アメリカの会社(経営)の理解を深める
ためには格好の材料であった。
  シカゴに着いても時差ボケの続きでなかなか眠られない。ロサンゼルスの
Dalton書店で買ったFlesch編の簡明な文章を書くための辞書を拾い読み
する。例えばapproximatelyという単語は使用せず、代りにaboutを使えとか、
「あきらめる」という意味を表すときはabandonはgive upにしろなどと書いて
ある。シカゴのホテルでは、中津燎子『なんで英語やるの?』(昭和53年4月・
文春文庫)も読んだ。ただし、著者の『世界共通語の英語』という言い方には
少々カチンとくる。「世界中で比較的良く通じると言われている言語の一つ
としての英語」とでも言ってもらいたい。
  タクシーの運転手はたびたび黒人であった。バックミラーに写る黒人の
顔をみていると、小学校4年生のころ読んだ『アンクル・トム物語』(講談社・
世界名作全集)にでてきたトプシーとかオーガスチン、セントクレアという
人名が思い出された。悲しく、重苦しい物語の中で、この2人の人名がでて
くるシーンは、私に安らぎを与えてくれた箇所である。
  ニューヨークから隣のコネチカット州の州都ハートフォードへ向かう列車の
中では現地の新聞(一般紙および大衆紙)を長い時間かけて読んだ。
デラウエア州グリーンウッドの80歳の床屋さんはいまだに代金1ドルで散髪
している。オレゴン州アストリア宛の手紙が郵便番号(ジョブ・コード)が記入
していなかったばかりに、オーストリアまで配送されてしまった等の毒にも
薬にもならない記事が面白い。
(いずれも「ウィークリー・ワールド・ニュース」12月9日号)。
  ペンシルバニア州の小都市ランカスターでは近代文明を拒否し、いまだに
馬車を利用しているような生活を送っているamishと呼ばれる人々のことを
書いた、"Among the Amish"という40ページ余りの薄い本を2冊買った。1冊は
一昨年から付き合いが始まった佐高信
(こう書房『経済小説の読み方』の著者)への
お土産用である。なおamishについてはNHK教育テレビで桐島洋子が紹介して
いたことがあり、私は若干予備知識を持っていた。
  ランカスターは小さい町ではあるが、立派な本屋があった。ロサンゼルス、
シカゴ、ニューヨークでみつけたどの本屋よりも品揃えが良く、店員の応接も
良かった。「アメリカの良さは大都会ではなく田舎にある」という誰かの言葉を
思いだした。日本へ帰ったら加藤秀俊『アメリカの小さな町から』という本を
探し出して読んでみたい。
  フィラデルフィアは、ウィリアム・ペンや自由の鐘に象徴される「歴史の町」
である。大学生のころ読んだ『フランクリン自伝』(岩波文庫)を再読してみたく
なった。
  サンフランシスコではアメリカで初めて古本屋に入った。そこで昭和30
年代に大阪で発行された英文の文楽の本を買う。この本は自宅宛郵便で
送ったが、本原稿執筆中(12月28日)には未着である。もし、この本が東京・
世田谷の我が家に到着するとすれば、大阪ーサンフランシスコー東京と
太平洋を往復したことになる。いや、サンフランシスコの古本屋に並ぶ前に
もっとアチコチを旅しているのかも知れない。
  紀伊国屋書店がサンフランシスコの日本人街にある。この店のレジの
ところに"Japan:1948―1954 through one American's eyes"という写真集が
積んである。序文によると作者O'Haraさん(女性)は船会社に勤務する夫に
ついて終戦後まもなく来日し、夙川に住んでいたという。当時の農家の風景、
西宮の小学校での運動会の描写などなつかしい写真がたくさんある。この
写真の時代、私は東京に住む小学生だった。作者が撮った西宮の小学生の
顔付きや服装は、私が知っているものとほとんど変わらない。
  この写真集の後半に「六甲山から海を眺む」という作品が収録されている。
たぶん(旧)六甲ハイツから撮ったものであろうと思った。帰国後、私が昭和
41年(1966年)に撮った写真と比較してみると、同一の建物を確認することが
出来た。また、私の撮った写真の中央には当時としてはまだ新しかった神戸
製鋼所(灘浜)が写っている。
  O'Haraさんの写真の同じ場所にも大きな工場らしい古い建物が写っている。
国籍・性別を異にする2人の人間(O'Haraさんと私)が、10年以上の期間を
おいてほぼ同じ位置から神戸市街の写真を撮ったわけである。

  12月17日サンフランシスコ発13時40分(JL-001)成田行きの機内では、
3週間のブランクを埋めるべく日本の日刊紙・週刊誌を手あたりしだい読んだ。
毎日新聞(12月16日付・朝刊)には神戸高校時代2年下級にいた寺見元恵が
マニラの売春観光に関する現地サイドからのルポを寄せていた。彼女は筒井台
中学時代にエスペラントを習っていた。その関係で、彼女の高校入学時に3年生
だった私は、エスペラント研究会への入会を勧誘したことがあった。エスペラント
研究会に入会こそしなかったが、彼女は海外との文通資料を文化祭の展示の
ために提供してくれた。現在、寺見元恵がタガログ語文学の紹介者として
しだいに世間に認められていく背景には、筒井台中学時代に学んだエスペラント
があるのではなかろうか。
(次回は「神戸と”ガイジン”」を予定しています)

この原稿は、(株)勁草書房が出版した「神戸の本棚」(1986年10月5日第1版)に発表されたものを再掲示させて頂いたものです。

 植村達男PROFILE

1941年鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒業、
住友海上火災保険(株)入社。自動車業務部次長、情報センター長
著書に『時間創造の達人』(丸善ライブラリー)、『本のある風景』(勁草書房)ほか

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