「霧の波紋」(3)                 白川零次著

序章 甘い酒(3)


  非鉄金属大手五社の一つである山川メタル株式会社で、社長歴十年、
会長歴六年という大場ワンマンが君臨した。昨年の半ば、今期限りでの引退を
密かに決めていた大場は、引退後について、二つの野望を抱いていた。一つは
四億円強の退職慰労金を波風立たせず頂くこと、そしてもう一つは来年の
勲一等瑞宝章の叙勲を受けることである。
  会長退任後も院政を敷くということは、大場の眼中になかった。院政に対する
野望がないということではなく、院政は大場にとって当然の前提と考えていた
のである。
  退職慰労金と勲章、この二つの野望を果たすために後継社長指名を慎重に
考えて来た。
  当初、彼は俵文四郎副社長の起用案も頭の中に入れていた。序列的に
ナンバーツーであるし、何よりも大場のロボットとしては一番扱い易い男だった
からである。だが、経営者として俵はあまりに力不足だった。山川メタル技術陣の
総帥であるが、技術屋以上の域を出ていない。俵では退職慰労金についても叙勲
についても波紋なしに決着させる確信が持てない。
  そこで、今年に入ってから、大場はナンバースリーである原田康雄専務の
後継社長指名を胸中ほぼ決めていたのである。原田は「カミソリ康」といわれる
ように、鋭い臭覚を持っている。しかも原田以上に切れるといわれる大井戸営業
本部長を派閥の参謀につけている。原田と大井戸が組めば二つの野望も波紋
立たせず、満たしてくれるのではないか、大場の確信は日を追って強くなった。
だが、大場にとって不安がないわけではなかった。原田は俵ほど自分のロボットに
徹しはしまい。恐らく大場路線を修正して原田新路線を敷こうとするのではないか。
大場院政を拒絶する経営に走るのではないか。
  この大場の悪い予感は退任後一月と経たないうちに現実になって来た。まず
四億円の退職慰労金を波風を立たせず、株主総会で承認させておきながら、
波江長老の影をちらつかせて、大場の方から辞退させるというシナリオを描かれて
しまったのだ。
  そして、どうしても掴み取りたい勲章への野望も遠去かって行くような気配である。
山川メタルの過去を暴露して、諸悪の根元は、二十年間君臨した大場一身にありと、
世間に印象づけようとしているのではないか。
  大場が描いていた野望達成の筋書がどこで狂ったのだろうか、やはりあの事件が
凶兆だったのか。今年初めの福岡自殺事件が、大場の頭の中をふと掠
(かす)めた。
あの社員自殺を少し甘く見過ぎたかな、いや、自殺したことはいたしかたなかった
として、その後結末について、原田や幹部社員にもっと厳しく、細かい指示を与える
べきではなかったか。反省とも悔恨ともつかぬ苦い想いが大場の胸をしめつけた。

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。