「霧の波紋」(4)                 白川零次著

第一章 リストラ自殺

    (1)

  トゥルルル、トゥルルルという電話の音を夢うつつの中で山川メタル福岡支店長の
有賀は聞いた。
「きっとあなたよ。ねえ出てちょうだい。」
  妻の静枝が寝呆け声で言いながら枕許の時計を見る。
「まだ四時半よ。きっと会社の事でしょ。」
  仕方なく“よいこらしょ”と最近口癖になった掛け声をかけて、有賀俊一はダイニング
キッチンに立った。一月も半ばを過ぎている。寒い。寝室の夫婦の温もりがこんなに
暖かいものか、有賀は半分白くなりかけた髪の毛を手でかき上げながら、受話器を
とり上げて言った。
「もしもし、どなたですか。」
  いつものように、「はい、有賀です」という応答は咄嗟(とっさ)に避けた。時間が
時間だ。間違いか悪戯(いたずら)電話かも知れない。
「有賀支店長さんでしょうか。」
  相手の女性の声に何となく聞き覚えがあった。
「はい、そうですが。」
「猿渡の家内でございますが、実は先程主人が自殺いたしました。」
「え! 何ですって。一体どうしたんですか。」
  有賀は一瞬にして目がさめた。自分でも驚く程、大声である。
「今夜夕食のあと、自分の部屋で喉を刺身包丁で突いたのです。すぐに救急車を呼び
ましたが、出血多量で先程息を引き取りました。」
  猿渡夫人は予想外に落ち着いていた。
「奥さん、お気持ちをしっかり持って下さい。今からすぐそちらへ行きます。病院を教えて
下さい。」
  車の手配をしながら、有賀は静枝に事の次第を話した。
「君もあとから病院に来てくれないか。俺の方は本社への連絡やら何かで忙しいから、
君は奥さんの方の面倒を見てやってほしいんだ。」
「わかりました。大変な事になったわね。あそこはまだお子さんが両方共小学生
だったんじゃなかったかしら。やっぱり今度のリストラが原因なの。」
「それはまだ何もわからん。でも猿渡君が広島の中国興産に行く事を嫌っていた事は
間違いない。俺としては彼にとって不足はない受け皿だと思ったんだけどね。やはり
母親がいるこの福岡を離れるのはいやだったんかな。…… とにかく俺は先に行く、
あと頼む。」
「気をつけてね。」
「うん君もな。」
  明け方ではあるが、福岡の街はまだ眠っていない。屋台の群の灯りや若者たちが
たむろしている親不幸通りは、まだ何かがやがやと騒がしい。自分の部下が自殺した。
その厳粛な現実とタクシーの窓から眺める夜明けの福岡が何ともつり合わないな、
という思いを有賀は抱いていた。今、自分は異次元の世界を走っているのではないか、
とさえ思った。
  天神(てんじん)の交差点にほど近い九州総合病院にタクシーをつけた。大きな
建物だ。まだ明けやらぬ夜の暗いキャンパスを背景にして、特に大きく感じる。
  猿渡家がまだ二人もの小学生を抱えている事を考えると、自分の方が五歳年上では
あるが、娘と息子二人共東京の大学に通っている己れの立場を思って、有賀はなぜか
ほっとするものを感じた。その二人の子供達は、有賀が既に購入している国分寺市の
マイホームからそれぞれの大学に通学している。つまりここ福岡では、女房の静枝と
二人切りの新婚生活のような借上げ社宅住まいをしているのである。

    (2)
「解った。有賀君、今本社が色々大変なことは君も知っているだろう。とにかくその件、
新聞を抑えるんだ。たとえ運悪くブン屋に嗅ぎつけられても、自殺の原因は別のことに
するんだ。リストラとか首切りが出ては絶対にまずいぞ。そうだな。自殺の原因を何にして
おくかは君と口裏を合わせておかなくちゃまずいな。どうだい、原因は何が良いと思うか。」
  山川メタル本社の取締役大井戸営業本部長は頭の回転が早いことで名を馳せている。
早朝六時、有賀福岡支店長の報告を自宅で受けるや否や、すかさず彼に対してマスコミ
抑えの指示をした。
「原因を考えろと言われましても、猿渡は自殺直前の夕食時に、奥さんや子供達の前で
“広島なんかに行かされるなら死んだ方がましだ”と言ったそうなんで、そのほかの理由を
探せといわれましても……。」
「何を言っとるか。奥さんの説得は君の責任でやれ。そうだな“病気を苦にして”が一番
良いな。うちの営業マンは殆ど胃潰瘍ぐらい患っているだろう。」
「さあ猿渡についてそのような話は……」
「何でも良い。とにかくリストラだけはだめだ。会社の信用を落とすというより、俵副社長派に
都合の良い口実を与えることになるからな。病気でなけりゃ女関係でも何でもでっち
上げるんだ。いいな。今副社長派に次期社長を持って行かれると、原田専務をかついでいる
俺や君を含めて営業部門は、一生日の目を見ないことになるんだぞ。」
  有賀支店長がなおも反論しょうとする前に、大井戸の電話は一方的にガチャンと切れた。
溶け出した鉛の煮え湯を喉に押し込まれたような思いで、ひょろっと背が高い有賀は九州
総合病院の暗い廊下に立ちすくんでしまった

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。