「霧の波紋」(5)                 白川零次著

第一章 リストラ自殺

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  山川メタル本社専務室は、専務専用デスクに豪華な黒皮張りの応接セット、壁には
最近売り出し中の画家の風景画が無造作に掛かっている。日本橋に本拠地を構える
山川グループのメイン企業の一つだ。
  午前九時、大井戸取締役営業本部長はいつもより早目に出社して専務取締役の
原田康雄を専務室で待ち受けた。今朝早く、福岡支店の事件で、自宅に電話したばかりの
ことである。秘書が持って来たお茶を二口三口飲んだところへ、原田が別の秘書にカバンを
持たせて入って来た。
「さっきの電話で聞いたことの外に、まだ何かあるのかね」
  大井戸と向かい合って応接椅子に座りながら、原田専務は無関心を装うかのように
投げ槍な質問をした。短くずんぐりとした足を無理に組んでガラス製テーブルを大井戸の
方に押しつける。そして早速ヘビースモーカー振りを発揮して煙草をぶ厚い口にくわえた。
付き添って来た秘書より一瞬早く大井戸がライターで火をつけてやり、
自分も一服つけた。痩せぎすの身体を緊張で一層細くしながら大井戸が答えた。
「あのあと、もう一度福岡から電話がありまして、自殺した猿渡の奥さんが“病気を
苦にしての自殺ということでは納得出来ない”と言って泣きついて来たんです。あの
大人しい支店長の有賀には、これ以上ごり押しさせるわけにも行かないと思いまして……。」
  大井戸にとっても苦しいところだった。福岡支店長の有賀には若い頃から目をかけて
来たつもりだ。本来なら社員の自殺という不祥事報告は、まず有賀の直属の上司である
営業部長の小佐野にすべきなのだが、その小佐野が海外出張中という事もあって、有賀は
思い切って、その上の営業本部長である大井戸に報告して来たのである。本社内では
大井戸が一番早く事件情報を知って恥をかかずに済んだことは有難かったが、一方有難
迷惑でもあった。
「ふん、それで大井戸君、君の意見は?……。」
「専務、申し訳ありませんが、猿渡の自殺はリストラ原因と新聞に書かれることになると
思います。」
「君が仕方がないというなら、外に方法がないじゃないか。ただしその場合絶対に福岡
地方版だけに限定させるんだな。全国版にでも出されちゃまずいよ。マスコミの批判は
恐ろしいからね。それよりも会長のご気嫌を損じる方がもっと怖いよ。」
  専務の原田は困った表情を作りながらつけ加えた。
「全国版を抑えるためには、高品総務部長の協力も必要だろう。敵方の参謀で君の
ライバルでもあるわけだから、本当は奴の手助けなど頼みたくはないんだがね。何しろ
新聞や広報関係は総務部長がすべて抑えてるんだから仕方ないわな。」
「高品部長にはすぐ私から話しておきます。早く話しておかないと営業からの連絡が
遅れたんで、ブン屋を抑えることが出来なかったと悪宣伝されそうですから。」
「そうしてくれ。だけどリストラ苦の自殺がもし公(おおやけ)になってしまったら、大井戸君、
営業本部長である君の責任は逃れられないかも知れんぞ。あるいはリストラ総指揮者の
吉池人事本部長の首も危なくなるかな。いずれにしても我が陣営のどちらかが犠牲に
なりかねない。だから新聞の全国版だけはどうしても抑えるんだ。」
  本人を前にして“お前責任をとるか”と事もなげに言い放つ無表情の原田を見て、
大井戸は背筋に寒気が走った。
「責任問題は何とか有賀福岡支店長か小佐野営業部長止まりにして頂けませんか。
明日の常務会で専務からよしなにお話し頂けると有難いんですが。」
「君、こんなつまらない話は常務会で話題にすることじゃないよ。それでなくとも大場会長は
“人情の大場”で通っているんだ。いや、事実がどうであれ、会長自身は皆からそのように
言われている、と信じてるはずだよ。その人情会長の会社でリストラ自殺が出たなんて、
今大ボスを不機嫌にさせたら、私の立場がどれだけ不利になるかぐらい君も解っている
だろう。九州の地方版に書かれる程度で済むならば、事は大げさにならないが、全国版の
素っ葉抜きを絶対阻止するんだ。“福岡版だけに限定させました”と会長に報告出来るまで、
今日一日待っているから早く片づけて来てくれ。」

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。