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その日は初秋の風が爽やかな夜だった。原田専務と大井戸取締役営業本部長は
仲居達を人払いした築地の小料理屋“あずさ”で、二時間以上も話し合った。
「俵副社長には高品部長がついていますね。昔からなんとなく大場会長のお気に入りの
連中です。原田専務、あなたはざっくばらんに言って遅れている派閥ですね。相当な
ウルトラCをやらなくちゃ次の政権はとれない。私は真剣に原田内閣の成立につとめます
からよろしく。」
「いやこちらこそ宜しく頼むよ。ところで大井戸君、君が考えているウルトラCとはどんな
事かね。」
「大場会長はおそらく今期限りで引退でしょう。ですから気持ち良く引退して、そのあとも
バックアップしてさし上げることが肝心ですね。」
「それは当然だ。そこのところをどうしたら会長が気持ち良くなるのか、もっと具体的に
君の考えを聞きたいんだ。」
「これはある筋から入れた情報なんですがね。大場会長は退職慰労金の満額確保と、
それから来年の叙勲を狙っているように思われます。来年あの方は七十歳になります
からね。」
「ほう、そのある筋ってどんな筋だい。」
「専務、秘書室の小倉光子という娘(こ)をご存知でしょう。その小倉は営業部の
高村晃一と良い仲なんですよ。結婚するだろうという噂ですがね。その高村が
小倉から聞き出したと言って、この間一杯飲ませた時話してくれました。」
「大場会長がずばり勲章と退職金がほしいと言ったのかね。」
「いやそこまでは……。小倉にしても高村にしても情報は間接から間接のそのまた
また聞きですからね。それに私の推測も入ります。ただ小倉って娘(こ)、大場会長よりも
会長夫人にかなり気に入られているようで、会長宅へお使いに行かされた時、夫人から
よく家に上げられてごちそうになるそうですが、その会長夫人の話では“うちの主人も齢を
とって最近疲れた疲れたを連発する”というんですね。」
「なるほど引退の気持十分というところか。だけどそれがどうしてすぐに退職金と勲章に
つながるのかね。大井戸君。」
「いつだったか会長夫人が“うちの主人も大同製煉の阿部会長さんのように身ぎれいに
引退したいのじゃないかしら”と言ったらしいんです。その事をこの間から一所懸命考えて
みました。そこで行きついた結論が退職金と勲章なのです。」
大同製煉は山川メタル同様、大手非鉄金属五社の中の一社である。その阿部前会長が
一昨年六十九歳で引退した。社長会長通計八年のキャリアである。その退職慰労金が
およそ二億円だと新聞に素っ破抜かれた時、世評をかなり賑わせたものだ。
山川メタルほどではないが、やはり毎年百人規模のリストラを繰り返している不況産業の
会長が、退職慰労金二億円とはあまりに高額ではないか、との批判の声である。
大同製煉社内でも不満分子の声しきりだったらしい。
だが、阿部前会長本人が退職金を辞退した、という趣旨の記事はついぞ出なかったので、
恐らく記事の額面通り受けとったのだろう。
非鉄六社は大体横並びの内規を持っている。社長会長歴八年という期間を、山川メタルの
内規に当てはめた場合、その退職慰労金はやはり二億円程度になるのである。だから
山川メタルの大場会長が引退すると、その社長会長歴十六年間というキャリアからして、
内規上およそ四億円強となる計算である。
またこの退職慰労金騒動とは別のニュースに注目が集った。会長退職後九ヶ月目、
既に七十歳になった阿部会長は、去年の秋の叙勲で勲一等瑞宝章を授与されたのである。
ただし、この叙勲も決して唐突なことではない。歴代の非鉄五社の会長は二年交替で
日本金属連盟の総理事長をつとめる慣例になっている。この総理事長経験者は我が国の
非鉄金属業界に貢献した、という趣旨で、殆ど勲一等を授与されているのである。大同製煉の
阿部前会長も山川メタルの大場会長もその例外ではない。判例上叙勲資格十分ありという
立場だ。
だから大場会長が勲一等を期待するのも当然といえば当然だ。大場の場合、叙勲適格
年齢といわれる七十歳になるまであと一年のタイミングなのである。
勘の鋭い大井戸営業本部長が部下の高村の話から、大場会長の狙いが退職慰労金と
叙勲にあり、と見当をつけたのは恐らく正鵠を射ているだろう。原田はこの切れる部下が
自分の派閥の参謀であることに改めて頼もしさを覚えるのであった。
(以下、次回に続く)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部 |