「霧の波紋」(10)                 白川零次著

第三章 ゆすりの背景

    (2)


「そうですね。草加巌雄の素性については会長には内緒にしておきましょう。下手に
逆鱗(げきりん)に触れては元も子もありませんから。」
「その通りだ。この総会屋の脅しは原田専務側の罰点に間違いないのだからね。
“福岡版に止どめろ”という話だったのにこんな脅しにまで発展させたわけだから。
俺達まで怒られたんじゃ馬鹿馬鹿しいからな。」
  俵副社長と高品総務部長が大場会長室に入ってから僅かに十数分後、今度は
原田専務にお呼びがかかった。原田としては総会屋書状など知る由もないから突然の
呼び出し、しかも 俵も高品も退室していて大場会長一人の部屋に入った当座は
何のために呼ばれたのか想像もつかなかった。
  わけのわからないままに総会屋の内容証明便を見せられ、それに対する高品の
手書きによる回答文書案を手許に投げるように放り出されて、しかも小一時間大場会長の
激怒の説教を受けた。
  会長の激怒はあっちこっちに飛んだが、大体つぎのような文句の繰り返しだった。
  首切りで社員を自殺させる事自体前代未聞の不祥事だ。しかもそれを新聞にリーク
させるなんて不注意も度を超えている。その上、総会屋の脅しにつかまるとは何事か。
  その脅しも“俺の一番痛い処をついて来ている、俺は大体人情本部長で通して来た
つもりだ、その名声をお前等に壊されてしまった。どうしてくれる”。大体この趣旨の
繰り返しだった。
  大場のどすの効いた怒鳴り声に、心臓まで凍りつく程の恐怖感を感じながら、原田は
うつむいたまま殆ど声を発することも出来なかった。
  最後に大場が指摘したのは高品部長の回答文書案である。“俵副社長と高品部長は
非常に思慮深く回答案までつくって持って来た、しかもその案文に自分は大変満足している”
という。
  “この俵・高品案で総会屋に返事を出すことにしたから覚悟しておけ”と怒鳴りつけられた
原田が、気もそぞろにその鉛筆書きの高品案を読んでみると、要旨は大体次のようなもので
あった。
  “社員が自殺したのは痛恨の極みである。勿論自分(大場会長)はそういう悲劇が
起きないように常に管理職全員に注意している。今回の福岡事件は自分の意図を十分
理解しない管理職の不用意な行為で起きたのである。遺族には十分な配慮をすると共に、
このような不祥事をまねいた管理職は厳重に処分する”
  大場は最後にとどめを刺すように、さらに大声でつけ加えた。
「回答文の最後の部分読んだだろうな。関係者の厳重処分というところだ。いいか、
口先だけではだめだからな、事件に直接間接関係のある上位職を厳重に処分すること、
お前の責任でやれ。」
  専務室にもどった原田は一時放心状態だった。大場会長の一番触れてはならない
ところに、一匹狼の総会屋が脅しを掛けてきた。この事件の処理如何では、完全に
俵副社長派の軍門に下だることになるだろう。
  早速、名参謀である大井戸営業本部長に相談しなくてはと考えて、原田はふと
思い止どまった。
  大場の怒りを抑えるためには、福岡支店長の首だけではとても無理だろう。少なくとも
小佐野営業部長にも責任をとらせることは避けられない。
  いや、それだけでは済むまい。その上の大井戸営業本部長まで首にすべきではないか。
  そうだとすれば、ひょっとすると首にするかも知れない大井戸を相談相手にするわけには
行くまい。
  一方、早く腹決めしないと会長の怒りは益々倍加しそうだ。下手すると原田自身の
進退にまで及ぶかも知れない。
  少なくとも現段階では一歩俵副社長に先んじられてしまった。今はとにかく我が身を
守らねばならない。
  夕方近くになって原田は思いつめたように、再び大場会長室に向かった。大井戸
営業本部長とも一切相談しない孤独な決断だ。
  大場会長は最近眼圧が急激に上がって来て、視力が極端に落ちて来ている。恐らく
緑内症の兆候だろう。暗くなると早々に帰宅してしまうのだ。
  案の定、会長室では帰り支度中の大場会長を小倉秘書が鞄を持って待機していた。
部屋に飛び込んだ原田は小倉秘書に目くばせして退室させ、大場会長と二人切り対峙する
形となった。体躯的には大熊と小熊が睨み合う雰囲気である。
「会長、ご宸襟(しんきん)を悩まして本当に申し訳ありません。私の腹は決まりました。
福岡支店長と営業部長は十日後の二月一日付けで首にします。大井戸営業本部長と
吉池人事本部長は両方とも取締役ですから、今年の六月の総会で解任を言い渡すことに
したいと思います。」
  最初は迷惑そうに帰り支度の手を休めず、原田を立たせたまま自分はあらぬ方向を
見て聞いていた大場会長は、原田の決断の早さが気に入ったのか、小さくうなづいて、
「原田君、そこまでしなくとも……少なくとも人事本部長の吉池まで責任をとらせるのは
どうかね。たとえばだよ山形工場や、大阪支店で同じようなことがあったとして、その都度
人事本部長が責任をとらされたんじゃ、リストラは絶対にやれないということになるからな。……
まあ君の判断に任せるよ。そして高品君の回答文にいくらかののしをつけてやれば穏便に
すませられるんじゃないか。さっきは予想もしなかった総会屋の脅しにわしもちょっとうろたえて、
君にも済まないことをしてしまったな。ただし、最近総会屋とのつき合いは何かとうるさくなって
いるから、その点も十分注意してくれたまえ。」
  大場会長は原田の肩の上に軽く手を置いて部屋を出た。

再び専務室に戻った原田は極めて複雑な心境だった。原田の機敏な首切りの決断で、
大場会長の気嫌を一応は取り戻せたようである。帰宅間際の飛び込み進言、大場は
このようなパフォーマンスを意外に高く評価するたちなのだ。
  しかし会長の言葉をじっくり反芻すると、完全に“お構いなし”は吉池人事本部長だけで、
原田自身が口に出してしまった外の三人については大場は一言も触れなかった。
その三人のうちの一人は最も信頼するブレインの大井戸営業本部長なのだ。だが、
今更会長の真意を再確認するわけにも行かぬ。恐らく綸言(りんげん)汗の如しと解釈
すべきだろう。
  営業部長と福岡支店長の馘首は問題あるまい。本人達もある程度覚悟しているだろう。
だが大井戸営業本部長まで処分しなくてはと考えると、原田は気が重かった。
  頭の切れる参謀を、この最も苦境に立たされた時点で首にするのは何分にも惜しいし、
また極めて言い出しにくいところである

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

前のページに戻る

前回分を表示する

1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。