「霧の波紋」(11)                 白川零次著

第三章 ゆすりの背景

    (3)


  しばらく考え込んだ後、原田専務は思い切って大井戸営業本部長を呼んだ。
当分の間本人の首の件については触れず、大場会長の激怒を宥(なだ)めるために、
原田派としての対応策を検討しておく必要があると思ったからだ。やはり大井戸
ブレインは利用出来るだけ利用したい。
  大場会長とのいきさつを一通り大井戸に話して、原田は一方的に申し渡した。
「福岡支店長の有賀と小佐野営業部長には大井戸君、君から首を言い渡してくれ給え。
小佐野は今アメリカだったな。あと三日で帰国らしいからそれからで良かろう。出張中に
FAXで首を言い渡して、アメリカで自殺でもされちゃまた一大事だからな。」
  冗談が冗談にならなかった。
  大井戸は一言も発せず、また一言も応えようとしなかった。
“もしかしたらこの男、自分の身辺にも危険が及んでいる事を察知したかな”
  飢えた狼のような鋭い目つきで、自分を見つめ続ける大井戸に背筋を冷たくしながら、
原田が返事を促そうとした途端、
「ウルトラCを考えなければ、専務、我々は共倒れですね」
  腹の底からしぼり出すような大井戸の言葉と吐く息に、猛禽類の匂いを原田はかいだ。
「ウルトラCね、大井戸君、どんな考えだい。」
  東京の冬は一段と冷え込んだのか、専務室の窓の外はくもりガラスに日本橋の
ネオンが滲んでいる。
「とにかくまず会長の退職慰労金と叙勲を確実にしてやることです。これはもう説明した
通りですね。それから……。」
「それから?」
「相手側を落とし入れる術策が何かありませんかな。……例えば私はあまり情報を
持っていませんが、例の目黒工場移転問題、俵副社長は大石建設にえらくご執心の
ようですね。そこに何か落とし穴がありませんかね。たとえばリベートみたいな金銭絡みの……。」
「大井戸君、もし事実だとすればそれこそ一大事だよ。……事実かどうか別として、そのような
噂が流れるだけで一発逆転になるのではないか。」
「その通りです。専務が山川銀行案を通そうとしている狙いには、純粋に山川グループ全体の
ことを考えて、というきれい事の建前だけではありませんからね。専務も私も、それから会長にも
きな臭い粉がかかっていますよね。」
  大井戸の表情は、益々ハイエナの眼光を連想させる気配になって来た。
  山川銀行が提案している厚木地区移転誘致が成功した暁には、これに貢献してくれた
原田専務派に何がしかの成功報酬の密約がなされているのである。商品券とか背広代とか
名目は何であれ、一人当たり数百万円の隠し贈与が頂けるはずである。勿論大場会長が
最高額を受け取ることになるだろう。
  大井戸は山銀とのこの密約を原田専務に認識させることで、二通りの利用戦術を
考えついたのである。
  一つは山川銀行ですらその程度の裏金を準備しているのだから、大石建設も俵副社長側に
間違いなく同様な口約束をしているに違いない、そして恐らく大場会長を最大のターゲットに
しているであろう、という確信に満ちた憶測である。
  そしてもう一つは山川銀行との密約に関して、原田専務も同じ穴の狢(むじな)だということを
原田自身に再認識させておこうという狙いである。その意味で原田は自分を裏切るわけには
行かない、大井戸はそれを原田に知らしめたかったのだ。


    (4)

「専務、福岡支店の有賀は渋々承知しました。これは移転先を考えてやる必要は
ありません。自分で何とかしろと言っておきました。」
「うん。ところで営業部長の小佐野についてはどうかね。」
「受け皿を考えてやるという条件つきで納得させましたが、仲々今時、あの年齢層を
受けてくれる会社はないもんですね。何しろ七千人クラスの大企業が次々倒産する
時代ですから。」
  一月最後の常務会を三日後に控えている。原田専務の関心は、福岡支店長と
営業部長のリストラよりも目黒工場移転問題にいよいよ結論を出す時期であることに
移っていた。これが吉とでるか凶に転ずるか、そのせめぎあいが彼の最大の注目点
なのである。
  この一週間、大井戸とも相談しながら原田は、大石建設と俵副社長派との暗い
関係についてつっ込んだ調査を進めた。大井戸の部下である中島営業課長の名前を
使って興信所に大石建設の調査を依頼した。一般調査では意味がないから、内容を
具体的にしぼって“桶川地区誘致の長所短所について”という調査項目指定である。
特急で頼んだ調査の結果は桶川の土地の評価や、大石建設がその桶川地区を
取得した経緯など一般調査に終始していた。が、一つだけ原田と大井戸が注目した点
があった。
  即ち、この桶川市の郊外地はバブル時大石建設が担保で取得した土地で、
取得価額に対して現在の評価額は二十億円強の目減りである、と調査書は記述して
ある。そして今回の山川メタルへのオッファー価額は、この二十億円のロスの約七割を
カバーする事になるだろうと付記してあった。
  大石建設はゼネコンであるから、桶川土地の売却利益だけでなく、その土地に
新銅箔工場の建設契約というおいしい利益もある。
  土地売却とゼネコン契約に成功すれば、土地評価ロスの二十億円強のカバーは
勿論のこと、莫大な利益が大石建設側に転がり込む計算となる。
  大石建設が俵副社長派に相当額のリベートバックするであろう、と推定する根拠は
これだけで十分の様だ。
  山川銀行がオッファしている厚木地区も、バブル時のつけである点は大石建設と
まったく同じ立場にある。だからこそ、これを支持する原田専務派に何等かのリベート
密約が出来ているわけだ。


(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。