「霧の波紋」(12)                 白川零次著

第三章 ゆすりの背景

    (5)


  興信所調査内容だけでは、俵副社長への攻撃材料としていかにも弱い。
  原田と大井戸は策を練りに練った。その結果ある大胆な賭に出る決断をした。
  原田は営業課長時代から、非鉄地金業界紙である地金日報社の佐藤社長とは
親しく飲み食いをして来た。社長といっても社員は男女各一名、即ちたった三人という
零細出版社である。三十年前、昭和四十年の初めの頃、帰社しようとした原田は
山川ビルのエレベーターで、偶然佐藤社長と一緒になり、神田界隈で一杯やったのが
きっかけで二人は急速に親しさを増した。爾来(じらい)原田側からは地金の市況情報を
流してやったり、佐藤社長側から非鉄同業メーカーの内情や人事を聞き出したり、
相身互いの関係を続けている。
  原田はいつもの築地の“あずさ”で一席設けた。
  築地の老舗であるが、本願寺筋の奥まったところで周りは普通の住宅が多く、
余程の常連でない限り気がつかない程ひっそりとしたたたずまいである。玄関を入ると
狭い廊下があって、左右に二部屋ずつ、二階も同じだ。その四畳半の一室に原田と
佐藤社長は向かい合った。
  佐藤社長、年齢は原田と同じく五十七、八歳だろう。だが小なりとはいえ一匹狼の
業界紙で数十年、下品な愛想笑いも堂に入っている。原田と同じような小太りの身体で
太い足を無理して正座したまま、まず原田の一献を受けた。そのあとはお決まりの
愛想笑いを絶やさず足をくずした。
「佐藤社長、社長を男と見込んで一つ大きな賭に出たい。」
「見込まれる程の男ではありませんが、原田専務には昔からお世話になっている。
お話伺いましょう。」
  佐藤の口許から愛想笑いが消えて目つきも鋭くなった。さすがに百戦錬磨の一匹狼、
事の重大さを佐藤は一気に見抜いたようである。
  原田はおもむろに興信所の調査報告書を懐から取り出して、佐藤に差し出した。
その時襖(ふすま)が開いて、
「いらっしゃいませ。今日は新潟から寒鰤(かんぶり)が入っていますのよ。とりあえず
お造りにしました。」
四十絡みの比較的地味で渋い感じの若女将が刺身とお銚子をもって入って来た。
原田は亡くなった大女将時代からのつき合いである。
「やあ、おかみどうも。こちら地金日報社の佐藤社長、おかみも知っているでしょう。」
「もちろんでございます。お久しぶりですね。」
「ああ、いやどうも……」
  佐藤は眼を報告書に釘づけにしたまま、女将への挨拶も生返事だ。
「難しいお話のようですね。それではご用がありましたら、お呼びくださいね。」
  女将が出て行っても、佐藤はまだ調査書から顔を上げない。原田は手酌で
一杯やりながら佐藤の出方を待った。ここで焦るべきではなかろう。
「大石建設もかなり無理してつっ込んで来ているようですな、原田専務。」
  肝心な点をきちっと抑えたな、原田の胸にふと安心感が広がった。
「おっしゃる通り、かなり強引な誘致だと思います。」
「山川メタルさんにはもう一つ山川銀行の厚木移転の話かけもあるでしょう。そっちの
方は原田専務、あなたが引きずっているわけですな。」
「その通りです。私としては会長の大場の意向も確認しながら、やはり山川グループの
力を結集すべきと考えて、山川銀行の厚木集積地に同じグループの企業と共同で
移転したい、と社内説得にまわっているんですがね。」
  艶の良い寒鰤の刺身を音を立ててほおばりながら、佐藤が話の核心に入ってきた。
「大石建設の話は半年ぐらい前に、突然舞い込んで来たんですよね。そのいきさつと噂は
業界で色々聞いていますが、やはり俵副社長側が原田さんに対抗して強引に引きずり
込んだわけですか。」
「さあ自分に対抗してかどうかは解りません。とにかく大石建設はバブルのつけを何とか
早く処理したい、それと俵副社長の思惑が合致したんだと思っています。」
「大石建設は大場会長まで巻き込んでいると見るべきですかな。」
  佐藤は極めて核心をつく質問をした。
「直接接触しているとは思えません。しかし副社長の俵だけの一存で、あれほど社内で
強引に大石建設を押せるはずがない。やはり大場も内々承知の上と推測されます。」
「それで大場会長はどちらの案で行こうと考えておられるんですか、原田専務。」
  これもまた核心をつく佐藤の質問だ。
「今のところ五分五分ではないでしょうか。そこで佐藤社長へのお願いがあるんです。
お宅の新聞にぜひ記事を書いてほしい。」
  佐藤社長はにやっと笑った。
「出処不明の暴露記事ですな、原田専務。」
「お察しが早い。でも私の狙いは純粋なんです。会長の大場を山銀側、即ち
山川グループ側にむけさせたい一心での大博打なんです。佐藤社長に決してご迷惑は
かけません。」
  原田の賭が実はポスト大場、俵副社長との暗闘にあるというところまで、佐藤社長は
気づいてはいないようだった。そして、この目黒工場移転問題が会長引退後の山川メタルに
深く暗く関わって行くであろう事を、この段階では原田自身すら見通せていなかったのである。


(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。