「霧の波紋」(13)                 白川零次著

第三章 ゆすりの背景

    (6)


 翌朝、山川メタルは上から下の大騒動となった。地金日報の小さな数行の記事が
俵副社長派に与えた衝撃は想像を越えたものだった。
 “山川メタル目黒工場移転、大石建設が一括受注か?”
の見出しに始まる記事は、二面下部の目立たない箇所に掲載された。内容は過激と
いえば過激であるが、社員達はその深層にある複雑で陰謀に満ちた本当の意味を
理解してはいないだろう。
 “山川メタルはかねてより目黒工場の郊外移転を検討していたが、このほど大石建設の
桶川所有地への移転を内定した模様。移転土地の譲渡価格と工場建設費用の総額は、
数百億円程度の見込みで、大石建設はバブル時における取得価額と現在評価額のロス
約二十億円を本契約で完全に解消する見込。”
 自らがマッチポンプであるが、原田自身も建前上大騒ぎを装った。その新聞を鷲掴みして
原田が大場会長室に飛び込もうとした時、駆け込んで来る俵副社長と高品総務部長の
二人とぶつかりそうになった。
 大場会長に対して口火をきったのは原田の方だった。
「この次の常務会で最終決定するという予定なのに、どうしてこのような記事が出たので
しょうか。俵副社長ご説明頂きたいですね。」
 俵副社長は勢い込み過ぎたせいか、何かもごもごと口を動かそうおもむろとするが、
全然、声にならない。そこで大場会長が徐に三人を眺めながら言った。
「ま、お互いに少し頭を冷やそうじゃないか。そうだな。これから一時間後に常務会
メンバーを社長室に集めて善後策を話し合おう。いいか高品君、すく手配したまえ。」
「畏まりました。」
 高品が会長室を飛び出し、次いで原田がゆっくり退室しょうとしてちらっと後ろを振り
返った時、大場会長が俵副社長を上目使いで会長室に止どまるよう合図しているのに
気づいた。
 何かある、やらせ記事の効果がはっきり顕れた、と原田は確信した。

「この記事はまったくの憶測記事で、いや憶測というより口から出まかせ記事で取り
上げるに足らないと思います。勿論我が社からふらち漏らすような不埒な社員は絶対に
いないと思いますし、大石建設から出たとも考えられない。なぜなら評価額がどうの
こうのとか、バブルのロスを解消出来るとか、今我が社と微妙な関係にあることは百も
承知のはずですから、大石がそんな情報を流すはずがない。……要するに我が社
としての検討は予定通り来週の常務会で最終決定することにしては如何でしょうか。」
 まず俵副社長が発言をした。会長室で別れてからちょうど一時間後、大阪支店長を除く
七人の常務会のメンバーが社長室に会している。
 月岡社長はあえて進行役をつとめるつもりもなさそうな雰囲気だったので、俵副社長の
第一声になったわけである。
「私も俵副社長の御意見に賛成です。この記事は地金日報社長の佐藤氏が勝手な
憶測で、いわゆるマッチポンプの記事にしたのでしょう。さっき佐藤社長と話そうと
しましたが、居留守を使っているのかどうしても掴まりませんでした。我が社としては
こんな記事は無視して検討を続けるべきだと思います。」
 原田専務の発言である。原田としてはこのマッチポンプ記事の真の狙いがずばり
当ったので、もうこれ以上詮索されない方が自分にとって無難だと思った。“佐藤社長は
居留守”と発言したのは、秘かに原田と佐藤の間で密約が予め出来ていたのである。
 俵副社長と原田専務、このライバル同士の意見がまったく一致を見たのでもうだれも
発言する者は出て来なかった。しばしの沈黙が続いたあと大場会長が発言した。
「この記事の出処を詮索するのは別の機会にやるとして、大石建設と山川銀行には
十分うちの態度を説明せにゃいかんな。どうかね。大石には俵副社長、山川銀行には
原田専務が行ってくれんかね。」
「畏まりました。」
 俵副社長が言い、原田も黙って頭をさげた。そうだ、さっき大場会長が俵を自室に
引き止めて話したことはこの事だ。俵を大石建設側の説明に行かせれば、仮にリベートが
事実だとしても、大石に対して口止めが出来るからである。
 再び沈黙が続く中で大場が付け加えた。
「それから来週の常務会で、大石か山銀か最終決定をすることにしたが、場合によっては
延長もあり得るかな。」
 大場会長は相当慎重になっている。大石との裏工作があるのはこれでほぼ確実だ、
その裏工作に決着をつけるまで最終決定を延期しようとしているのだ、原田は
俵副社長派の動きが手に取るように解って来た。

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。