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翌週の水曜日の午前十時、東京では最も雪が降りやすい一月末、この日はその中でも
何年かぶりの大雪になった。JR各線は殆ど麻痺状態、重役連中の社有車の運行もまま
ならなかった。
都区内に自宅のある月岡社長と原田専務が、最も早く九時半には出社し社長室で二人切り、
あとの常務会のメンバーの出社を待っていた。
月岡社長が何を思ったか、原田専務が予想もしなかった四方山(よもやま)話を始めた。
「大場会長のお嬢さんも交通事故でお気の毒でしたな。」
「会長はお嬢さんのロンドン留学には反対されていたようにお聞きしておりますが。」
「会長はあのご性格だからお嬢さんは学生時代からお父上に大分反抗されたようですね。
ロンドン行きを決めたのも家で父親の生き方を見るのはいやだという気持ちからだ、と誰かが
言っていましたね。」
「父娘不仲説があったことは御存知でしょう。社長。」
「そうですね。でもお嬢さんはお父上との楽しい思い出もあるようだと聞いたことを覚えて
います。もっともそれはお嬢さんがうんと幼い頃の事のようですがね。」
俵副社長と大阪支店長がやって来て、月岡社長と原田専務の雑談が途絶えた。原田と
してはもう少し会長令嬢の話を聞きたかった。大井戸営業本部長が指摘した会長の泣き
どころについて、細大漏らさず情報を拾っておきたいと思ったからだ。
常務会のメンバーの集まりが悪く肝心の大場会長が現われない。それに緊急の目黒工場
移転問題の結論を先送りすることになったので、当日の常務会は自然流会の形となった。
その週の週末、降り続いた大雪が前日からぴたりとやみ、絶好のゴルフ日和となった。原田
専務は大井戸営業本部長と共に、山川銀行幹部を埼玉県上尾市郊外の青い瀟洒(しょうしゃ)
なクラブハウスが特徴的なゴルフ場で招待した。先週の地金日報記事について、山川銀行
本社での事情説明は終わったが、その手打ち式的な意味でのゴルフ接待である。
林の中やバンカーの土手のあちこちに、雪が残ってはいるが、空は抜けるように青く寒さも
大したことはない。二月初めにしては珍しく温和なゴルフ日和だった。
山川銀行のナンバーツーである服部副社長は気さくな男だ。
偶然、原田と服部と二人だけがきっちりとティーシットをフェアウエイにキープしたホールで、
一緒に歩きながら、
「原田専務、大石建設の桶川移転の案に山川メタルさんがお決めになると、専務は毎日でも
この上尾のコースに出られるわけですな。」
「はっはっは、副社長、これはきついお言葉ですな。この間のゴロつき新聞記事のことはもう
勘弁して下さいよ。我が社もまだ決定はしてはいません。会長の大場もその点十分お伝え
するよう申しております。」
「その大場会長さんもいよいよご引退のようですね。」
「いや、本人の口からはまだ何も。ただ確かにそのような雰囲気はありますね。」
こんな会話を交わしているうち、服部副社長のボールの地点に二人はやって来た。
グリーンまで二百ヤード位だ。小柄な服部のバッフィー・ショットが大きく弧を描いてグリーンを
目指した。
「ナイスショット」
原田の拍手に、
「いやあ、どうもまぐれ当たりの連発ですな。」
気を良くしている服部副社長に一歩つっ込んで見るかと、原田は思い切った話を持ち出した。
「副社長、山川グループの中でうちの大場を抑えることができる怪物はいませんかね」
大場とは二つ年下の六十七歳になる服部副社長は屈託なく即座に答えた。
「原田専務、それは山川地所の波江相談役でしょう。わたしより二十歳先輩だと覚えて
いますから、今年八十七歳になるはずだが、まだ取締役つまり取相(とうそう)ですからね。
大場会長に限らず今山川グループのお年寄りは皆、波江長老には頭が上がらないはずですよ。
大場会長も大昔のいわゆる山川合名の臭いを嗅いだ組ですから、波江元老の前では書生並み
だと銀行では噂しています。」
(以下、次回に続く)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部 |