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山中取締役名古屋支店長の社葬は名古屋と東京で盛大に執り行われた。特に東京では
青山の大斎場で五人の僧侶に読経させた。山川メタルの社内規定では、社葬経費は会社と
遺族の折半ということになっているが、大場会長の鶴の一声で全額会社負担となった。
大場にとって山中は年齢的に最も近い取締役であったというだけでなく、入社当初から
目をかけて来た一人だった。享年六十二歳。この二十数年間、リストラの嵐が吹きまくる中を
この年齢まで現役の取締役でいられたのはほかでもない、大場会長の配慮によるものだ
という専らの風評だ。
大場会長はかっての可愛い部下に対する純粋な気持ちから、これほど盛大な社葬を命じた
のだろう。だが、原田専務にとってこれは大変都合の良いことだった。山中取締役の社葬を
内外に大きく印象づけておけば大井戸発案の“弔慰金など”に退職慰労金をかぶせてしまう
というウルトラCの効果が、より大きく期待出来るからだ。
ひょっとしたら大場自身がこのウルトラCに気づいているのかな、
だからこれだけ盛大な社葬にしたのか、そう思うと原田は背筋が寒くなる思いが走るとともに、
早くこの秘策を大場にもらさねばという気持に陥った。
青山斎場では祭壇に向かって右側に遺族、左側に山川メタルの常務以上七人が整列して
弔問客に挨拶した。
大場会長、月岡社長、俵副社長そして原田専務と会社幹部七人のちょうど中央に位置した
原田は、大場会長の挙措動作にどこか不自然さを感じていた。
弔問客一人一人の焼香にあわせて幹部全員が一斉に会釈する。ところが大場会長だけが
なぜか少し遅れる。隣の月岡社長を一心に見つめて、彼の動きに合わせようとしているのだ。
大場会長の緑内症は相当進んでいるようである。社葬の日二月二十五日、東京は小雪が
ちらついていた。どんよりと厚い雲、斎場の中は健康な眼でもやや暗過ぎる感じである。恐らく
大場会長の眼には殆ど闇の中、視野も狭いのだろう。
それにしてもと原田は思った。半盲状態になっても玉座を降りない、降りようとしない、また誰も
降ろすことが出来ないその意志と権力欲の強靱さに原田は舌を巻いたのである。
大場会長以下数名が火葬場まで立ち会う手はずになっていたが、さすがに大場は疲れたと
見えて高品総務部長や秘書室長に抱きかかえられるように、帰宅の車に乗った。
その帰りの車の中で大場は高品総務部長にしみじみと、話かけたらしい。
「山中君とは彼が入社して大阪支店配属になった時、自分は支店の総務部次長だった。飲む
打つ買うをすべて俺が教えたようなもんだ。仕事の上でも厳しく当たったがね。けっして音を
上げずに喰らいついて来たよ。京都では泊まりがけで芸者を上げたこともあったな。僕なりに
彼を引き上げて来たつもりだが、それが却って彼の身体を蝕んでしまったのかな。」
津田沼の自宅に着くまで、終始目をつぶったまま大場会長は一人言のように呟いていたという。
“あんなに孤独で淋しそうな会長の姿を見たのは初めてでした”、高品総務部長は帰社早々、
俵副社長にそのように報告した。
(以下、次回に続く)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部 |