(1)
山中取締役の盛大な社葬の翌日、俵副社長と原田専務は昼食後突然、月岡社長に
呼ばれた。
「まあどうぞ。」
いつもの通り、殆ど無表情のまま月岡は二人に椅子をすすめた。
「実は会長からそろそろ引退発表したいと言われましてね。」
俵も原田もかねてから予期していたことではあるが月岡社長の口から明確な形で伝え
られると、改めて二人共緊張で身体がこわばった。
俵副社長はある程度予測していた。夕べの高品部長の話を聞いていたからである。
山中取締役の死が直接の切っ掛けになったのだな、と俵は感じた。
俵と原田の緊張感にはまったく無頓着のように、月岡社長は話を続けた。
「私自身もそろそろお役ご免にして頂きたいと思いまして、会長にそう申し上げると、
“そうですか、では二人一緒に記者会見と行きますか”と笑って言われましたよ。」
俵と原田は緊張に用心深さが加わってまだ一言も発していない。うっかりした発言が
命とりになりかねないからだ。
「いや、それでね、勝手に会長と二人で引退宣言をしてしまっても問題だ。やはりあとの
体制をきちんとしてからでないとね。」
「…………。」
「…………。」
いよいよ話が本題に入って来た。俵と原田は益々慎重になった。
「とにかく明日の常務会で話す前に、あなた方お二人には前もってお知らせしたいと
思いまして……無論会長もそうしてくれと言われましたので。」
ヘビースモーカーの原田は一服したかった。しかし月岡社長は煙草をすわない。
緊張から慎重へそしていらいらへと原田の気分はめまぐるしく変化している。
「そこでね。これから先の事は俵副社長、あなたが中心になって取り進めて頂きたい。
会長もそのようにおっしゃっておられます。……どうしたんですかお二人共。」
月岡社長が口許に微笑を含ませて、悪戯っ子のようなまなざしを俵副社長の方に向けた。
「いえ、その、つまり、あまりに突然のことで……またそのような大役を急に仰せつかいまして
恐縮というか、そのつまり……」
俵副社長の広い額に汗が滲んでいる。漸くそれだけのことを言ったが、その口調は
しどろもどろと言うより掠(かす)れ声のつなぎ合わせのようで聞きずらい。
「まあお二人とも十分予想されてたんでしょうがね。いよいよとなるとそれなりにお考えが
おありなんでしょうな。」
「いいえ予想なんて、私はまだまだ会長や社長にご指導いただきたいと思っております。」
俵副社長が少しゆとりを取り戻したのか、あるいは今後の事を自分に任せると言われて
優位に立ったという安心感からか、決まり文句のような謙譲の発言をした。
原田の方はまだ複雑な気持ちだ。これは自分の敗北を意味するのか、禅譲とはこんな
単純な儀式なのか、これから自分はこの情勢にどう対応すべきか、様々な思いが交叉して
考えがまとまらない。だが一つだけはっきりしていることがある。それは今、この目の前にいる
月岡社長に何を言っても始まらない、という事だった。
とにかく大場会長とじっくり話し合う機会を作るのだ。それもベストタイミングで、と原田は
心に決め、月岡と俵の両方に、
「私ももっと社長や会長のご指導を頂きたかったのですが…… あとの事は俵副社長に
お任せなさるそうで安心です。」
とってつけたようだが、大人の発言をするゆとりを原田は言葉で示した。
「原田専務も納得頂いて私も一安心です。……ところで俵副社長に申し上げておきたいんですが、
会長も私も取締役そのものを辞任するつもりです。ですから二人のことはまったく心配しないで
頂きたい。例えば大場会長に取相(とうそう)になっていただくとか、私を会長にするとか、
そういうのはまったくなしと言うことです。この点会長のお心も固いので。要するに今後の体制を
あなたがたで固めて頂きたい、と大場会長も言われました。」
極めて事務的な話にもとれる口調で、月岡社長が締めくくった。
ただ月岡のこの最後の発言を聞いて原田の頭の中を二つのことが駆け巡った。
一つはいよいよ退職慰労金に対して“弔慰金など”のウルトラCを出すタイミングをどうするかと
言うことである。
そしてもう一つ。月岡発言の最後の部分、今後の体制は“あなたがた”で固めてほしいという
点である。確かに表面上組閣大命が俵副社長に降りたように見える。しかし俵副社長が総理
として組閣せよとの決定ではないのだ。まだ逆転のチャンスもある。原田は急にファイトが湧いて
来るのを感じた。
(以下、次回に続く)
白川零次PROFILE |
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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部 |