「霧の波紋」(18)                 白川零次著

第五章 組閣大命

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 副社長室に戻った俵文四郎は足が地につかぬ思いで自分のデスクの周りをゆっくり
一回りした。喉もからからである。秘書にお茶の入れ替えを頼んで、自分は部屋の窓から
見慣れた日本橋界隈のビル群を眺めた。隣のビルの屋上には未だ残雪がある。
 お茶を持って入ってきた秘書に高品総務部長を呼ぶよう、指示した。
 入社以来三十六年、そのうちの二十年は工場勤務だった。山川メタルの技術については
すべてに自信がある。主力製品である歴史の古い地金は勿論、最新技術のハイテク素材に
いたるまで、自分の息がかかっていないマテリアルは一つとしてない。
 山川メタルは飽くまでもメーカーである。メーカーである以上技術なくして会社の経営は
成り立たない。十六年前、大場が社長になるまで山川メタルの社長はすべて技術屋だった。
 そして今、漸く山川メタル技術陣の総帥である自分に、経営トップの座が巡って来ようと
している。山川メタル四十八年の歴史を考えると技術系社長の実現は大政奉還と言うべき
ではないか。
 だが、俵にとって心配もないではなかった。組閣の大命は自分に降りたが、まだ自分を
社長にしてやるとは会長は言わなかったようだ。
 それに叩かれると痛い傷もないではない。
 高品総務部長に何からやらせるか。積極策か防衛策か。押っ取り刀で高品が飛び込む
ように部屋に入って来た。
「副社長、組閣大命おめでとうございます。」
「え! どうして君それを。」
「秘書室の前を通って来ましたからね。雰囲気で解りますよ。副社長、もう決まったような
ものですね。早速組閣に取り掛かりましょょう。」
「いや、まだ要注意だよ、高品君、例の三枚の小切手の件もあるしな。どうだい、今夜
ちょっとじっくり相談しょうか。」
「解りました。いつもの赤坂の“竹村”を予約しておきましょう。」

 夜になって雪はやんだ。道の両側に車がはねた泥雪のあとが続いている。赤坂日枝
神社の裏側、奥まった小路にある小奇麗な“竹村”に二人が着いたのは七時前、殆ど
人通りはない。
「副社長“沈黙は金”当たらず障らずが一番ですよ。」
 二人の話は既に核心に入っている。
 半年程前の昨年九月のこと、大石建設の金替常務から永田町の有名な料亭で、俵と
高品は接待を受けた。目黒工場移転に関して大石建設の桶川案が常務会でとり上げ
られた時、俵副社長から金替常務に“会長の大場も大石建設さんの提案に大きくうなずき
ましたよ”と電話をした。その一週間後、大石建設側から接待の場が設けられたのである。
まだ残暑厳しい頃だった。宴会のあと俵と高品の車の中に、残暑時にふさわしい涼し気な
包装紙の菓子折が積んであった。
 俵は家に帰って、いつもの通りだまってすぐにその菓子折りを妻に渡した。包装紙で
有名な高級和菓子だと解った妻は大喜びですぐ開封した。包装紙と菓子箱の間に事務用の
茶封筒が無造作に挟んである。妻は別に怪しむまでもなく、
「あなたお手紙らしいわよ。」
 と齢の割にはつやつやした手で俵にその事務用封筒を手渡した。
 中味を見て俵は仰天した。三枚の小切手が入っていたのだ。それも額面一千万円、
五百万円、三百万円であった。
「あなた何だったの。お手紙ですか。」
 既に水羊羹のカップに口をつけていた妻の美津子がいつものハスキーボイスで聞いた。
「ああそうだ。仕事のことでね。」

 その翌朝、高品部長と打ち合わせた俵は大胆な行動に出る決断をした。
 今さら大石建設に本意をただしても“魚心あれば水心”たぐいの返事が返って来るだけ
だろう。相手も大手ゼネコンだ。それ相当の覚悟の上でのリベートのはずである。あるいは
ゼネコン業界ではこの程度のことは日常茶飯事なのかも知れない。
 夕方大場会長が帰社する頃合いを見計らって、俵は会長室に入った。
「夕べ大石建設と会食をやりまして、金替常務から会長に言伝(ことづて)を頼まれました。」
無造作に話しながら例の事務用封筒を手渡した。中には額面一千万円の小切手を入れてある。
大場会長は、
「ああそうかい。」
 と気が抜けたような返事をしながら中味をちらっと検(あらた)めて顔色も変えずに内ポケットに
しまった。俵の方には一瞥もくれず何事もなかったかのように秘書を促して部屋を出た。
 一人会長室に取り残された俵は額の冷汗を拭いながら、しばらく呆然と佇(たたず)んでいた。
 が、やがて彼は自分が成した行為に自ら大きな満足感を味わった。
「これで会長も同罪だ。」
 自分の部屋に帰って来た俵は待っていた高品総務部長に三百万円の小切手を渡し、自分は
五百万円をポケットに入れた。

俵は半年前の、あの“事件”を述懐しながら、話を続けた。
「しかしこの間の地金日報の記事、例の“目黒工場移転は大石建設に内定か”という記事の
裏にはどうも我々の小切手をほのめかしている様に思えてならないんだ。高品君。」
「ええ、あれは確かに原田専務側があえて書かせたヤラセ記事だと思いますよ。でも奴等の
狙いは工場移転について我々に先んじられないよう、牽制をしたに過ぎないと思うんですがね。」
「牽制したことも間違いないだろうが、あの時期にどうしてあんな記事を原田側が書かせたのか、
どうしても気になるんだ。やはり彼等はこの小切手の件を薄々感づいているんじゃないかな。」
 テーブルの上に並べられた料理にも酒にも殆ど手をつけずに、二人は眉をひそめながら
ひそひそと話をつづける。
「でも副社長、小切手の件では大場会長も同罪ですからね。とにかくこの工場移転の件、
強引にでも大石建設案に決めちゃうんですよ。副社長、常務会でぜひこっちの案に引っ張って
下さい。そうすれば大石建設が小切手のことをばらすはずがない。もし山銀側に持っていかれると、
大石建設も態度を変える恐れがありますからね。」

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。