「霧の波紋」(19)                 白川零次著

第五章 組閣大命

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 翌朝の常務会で、月岡社長から会長社長の引退の決意が出席メンバーに告げられて、
なるべく早い時期に記者会見をしたいと付け加えられた。大場会長は一言も発せず、
うなずいたのみである。
 常務会のメンバーに動揺はみられなかった。恐らく昨日のうちに情報は社内を駆け巡った
のだろう。
 月岡社長は“当然の事だが”と前置きしながら、
「会長と私の記者会見時にあとの体制も一緒に発表したい。今後、俵副社長が推進役に
なって、この常務会のメンバーで検討し早急に結論を出して頂きたい。会長も私も口出しは
しないつもりです。」という発言で締めくくった。
 この社長発言を出席メンバー各人がそれぞれに受取り、それぞれの感慨を抱いていた。
 まず俵副社長が、
「大役を仰せつかり誠に恐縮にぞんじますが、原田専務以下皆さんのご協力ご支援を宜しく
お願いいたします。」
 極めて素直に受け取り、素直な感慨の情を表現した。ライバル原田専務の顔も立てた
つもりのようである。
 書記役の高品総務部長も社長発言である“俵副社長を推進役にして”と記述する時、
指先が震えるほどの感慨を味わった。だが、彼昨日の雰囲気と微妙なニュアンスの違いに
何かしら不安を感じていた。昨日、俵副社長の話では“俵副社長を中心にして”と社長が
言ったはずだが、今社長ははっきり“俵が推進役となって”と発言した。かなり違う
ニュアンスだ。だが高品はそこまで言葉の意味を詮索するのは自分の杞憂だ、と考えて
こだわらない事に決めた。昨日の話はあくまでも俵副社長から聞いた間接的な話だから、
俵自身の聞き取り違いがあったかも知れない、と考えたからである。
 原田専務は昨日と今日の社長発言に明らかな違いがあると感じた。
 “中心”と“推進役”では『ボス』と『使い走り』ぐらいの差がある。大変な変化だ。ただなぜ
今日と昨日の間にこんな重大な変化があったのか、昨日一日、原田自身としては何の
裏工作もしていないのに、どうしてだろう。原田はそのニュアンスの裏を探る必要あり、と
考えていた。
 俵・原田・高品の三人以外は社長発言に無関心だった。どうせ自分は圏外だからと言う
思いと、会長社長がそろって辞任をするのだから、その他の役員人事はそれ程大きな
異動があるはずはない、と踏んだのだ。つまり自分自身は今年六月の総会も安泰で
あろうと。

「新しい経営陣のことはこれからの事として、今日はどうですか、延び延びになっている
目黒工場移転問題について話したいと思いますが。」
 珍しく月岡社長が会議のイニシアティブをとるような発言をした。
 原田専務はこの発言にもおやっと思わされた。昨日のうちに大場・月岡会談が色々な
問題で綿密に練られたのだろうか。少なくとも引退発表と新社長体制について二人が
話し合ったことは間違いないが、その時に目黒工場移転の話も出たのだろうか。きっと
そうだろう。でなければ月岡社長の独断で移転問題を議題に出来るはずがない。原田は
そう考えて、月岡発言の裏を探ろうと思いを巡らし始めた。
 一方、高品総務部長は社長発言を千戴一遇のチャンスと考えた。俵副社長が優位に
たっている今この時点で、大石建設案を常務会で一挙に承認させる絶好の機会だ。
“俵副社長よ、今こそ斬り込め”書記係としての筆記を続けながら、胸の中で高品総務
部長は俵副社長に無言のエールを送った。
 ところが彼が目を上げて聞こえて来た声は原田専務のものだった。
「社長、その件について、私自身は山川グループ総合的な立場を考えて山川銀行提案の
厚木移転に乗るべきだと思っておりますが、会長社長のご退任というこの重大な時期に、
私としましてはぜひ会長のご意向をうけたまわりたいと思うのですが、……大変僣越
ですが、方向性だけでもご教示賜れば有難いとぞんじます。」
 ちょっと怪し気な雰囲気になったな、俵副社長も高品部長もいやな予感が走った。
原田専務は自分達の小切手に鎌を掛けて来たに違いないと思ったからである。

だが大場会長が自ら懐にした大石建設のリベート小切手について話し出すはずはあり
得ない。二人は会長の発言を心臓が張り裂けんばかりの気分で待った。大場会長が
おもむろに口を開いた。
「原田専務の言うように、山川グループの結束は大変重要な事だ。これからうちが
新体制で行くに当たっては特にね。だから仮に大石建設案の方が我が社にとって
有利だとしても、山川銀行には十分説明して納得してもらわねばならないし、もし逆の
場合は大石建設にきちんと礼儀を尽くさねばならないと思う。」
 結論を明確にしない結論だ。当たり前といえば当たり前の結論である。俵副社長にも
原田専務側にも、両方に配慮した結論とも言えよう。
 だが、大場自身、様々な思惑が錯綜して、まだ決定的な結論にいたっていないので
あろう。もう一歩つっ込んで、大場会長の考えを具体的に質す気迫は、出席メンバーの
中で誰も持ち合わせていなかった。
 数十秒の沈黙のあと、こんどは進行役に徹した月岡社長の声が広い社長室に空しく
響いた。
「では会長の意向を体して、近々に結論を出したいと思います。」
 この日の大場会長発言は、俵副社長と高品総務部長で解釈に微妙な差を生じた。
 俵は自分に有利、高品は自分等に不利と見たのである。高品が不利かも知れないと
考えた背景は例の懐に入れた小切手について、大場会長がまったく罪悪感を持って
いない気がしたからだ。大場会長はひょっとしたら俵や高品には内緒で、自分の
一千万円小切手を何等かの形で、大石建設に返すことを考えているのではないか、
そのような気配さえ感じさせる大場会長発言だった。

(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。