「霧の波紋」(21)                 白川零次著

第六章 退職慰労金

    (1)

 先週末、月岡社長と原田専務に提示した新取締役体制の私案について、原田がまだ
何の反応も示していないことに、俵副社長はやや
苛立(いらだ)ち始めていた。
 だが原田に返事を催促するのも気が引ける。それに俵に内密で原田が大場会長と
接触している気配もまず感じられない。高品部長が
秘書室に手を回して会長と原田の
動きを監視しているのだ。

 俵副社長は自分の新役員人事構想について絶対的自信があった。バランス感覚
十分だ。どこから突かれても文句のつけようがないは
ずである。組閣人事はこれで
完了したという気分で、俵副社長は総理大臣と
して、次の緊急問題に手をつけよう、
と思い立った。

「新組閣人事は原田専務の反応待ちだが、高品君、次に考えて置かねばならんのは
六月の株主総会のことだ。君は総会のベテランだか
らもう腹案は十分出来てると
思うが……。」

 俵の頭の中にも原田専務同様、まず大場会長の退職慰労金の処理が喫緊だという
認識がある。

「会長の退職慰労金は内規上四億円強になるはずだね。月岡社長は
八千万円ぐらい
かな。この二人の支給について総会を“波紋立たせ
ずすんなりと通してみせます”
と一日も早く会長に断言したい。恐
らくそうすることで僕の本当の組閣が完了する
ことになると思う。」

「私も十分認識しています。常務に昇格させて頂く私としても見せ場を作りたい
ですからね。副社長。」

「そこでだ、高品君、一番問題になるのは総会屋対策だと思うがどうかね。」
「その通りです。大場会長のリタイアですから、マスコミも注目しています。
今回は難しいことになりそうですね。なにしろ会長社長
で五億円ですよね。一方、
三百人のリストラに伴う退職特別割増金
が三億円、三百人の三億円とたった二人の
五億円が妙な形で宣伝さ
れてマスコミに騒がれると、総会屋対策も難しくなり
ますね。いや
社員の中でも不満分子が騒ぎ出す恐れがあります。」
 俵と高品はもう既に社長と常務になった気分で、深刻に話合っている。確かに
社員達の不平不満をどう抑えるか、総会屋や新聞・雑誌記
者をどうさばくか、
新社長、新常務の手腕にかかっているのだ。

「副社長、相当金はかかりますが、総会屋を抑えることは問題ないでしょう。」
「高品君、総会屋に金を出して危なくないのかね。いわゆる利益供与という……。」
「どこもやっていることですよ。ばれないようにやるコツは心得ているつもりです。
それに我が社のような貧乏会社には大物総会屋は
見向きもしないし、警察も手薄
ですから、無視していますよ。四大
証券とは比べものにならない程の貧乏会社
ですからね、うちは。」

「とにかく君が総会屋対策のベテランで本当に心強いよ。原田派の大井戸君では
とてもそこまで気が回らないだろうからね。」

 企業と総会屋の癒着が社会問題となっている。最近超大手の証券、銀行、食品、
デパートなどが相次いで商法違
反、いわゆる総会屋への利益供与で幹部連中が
検挙された。かつて
は、警察に挙げられるのは課長段階、悪くても部長止まり
だった。
挙げられた部課長は社長・重役に火の手が及ばぬよう警察を欺(あざむ)き
せば、いわゆる“箔がついた”と言われたものだ。しかし、最近では部課長
クラスを通り越して、直接社長・重役に官憲の手が延びる
ようになった。また、
総会屋本人よりも利益供与した企業側に社会
的批難が集中している。それは
ある意味で当然でもあるし、また正
しい見方であろう。企業が社会の公器である
以上、特定のしかも反
社会的存在である総会屋に金をだして、スキャンダルを
覆い隠すと
いう事は許すべからざる行為である。
 だが一方総会屋が右翼ないし暴力団とつながり、企業幹部またはその家族にまで
卑劣な脅しをかけて来ることもまた現実なのである。

 数年前象徴的な事件が起きた。これも超大手の銀行とフイルム・メーカーの
総会屋担当幹部が何者かによって殺害された。企業幹部
も命がけである。利益
供与で官憲に検挙されると社会的名声を落と
すが、命を落とす危険からは免れる。
名声か命か、際どい選択を迫
られるわけだ。
 勿論企業の危機管理を徹底すべきことである。小物で無名の総会屋だからと言って
あなどっては危ない。山川メタルのような貧乏会
社には大物総会屋は寄りつかない。
億単位の金が動くはずはないが、
何百万円単位の金の使い方で、山川メタルの幹部は
たちの悪い脅し
に合うことが多いのである。福岡支店自殺事件でその小物総会屋に
数十万円支払う様、大場会長が指示したのも、こうした社会背景を
考慮した上での
ことである。

 俵副社長は大きな応接椅子にふん反り返るような姿勢で一息入れた。高品総務部長は
その俵の耳に近づけるように身を乗り出しなが
ら小声だか、しっかりと俵に解らせる
ような口調で囁いた。

「副社長、もう一つこれも総務部マターですが、叙勲の問題があります。大場会長は
当然狙ってるはずです。来年が叙勲適齢期の七十
歳ですからね。大同製煉の阿部さんに
続けというところでしょう。」

 予想外の話が出て、俵副社長は面食らったような表情になった。
「叙勲決定の大元は総理府ですが、各業界はそれぞれの監督官庁から申請書を出して
もらうことになります。うちは当然通産省ですね。
直接本省というより資源エネルギー庁
鉱業課です。私はあそこの課
長と昵懇(じっこん)にしていますが、一度副社長もぜひ
会って下さい。最高級
の料亭で一席設けましょう。」
 俵はあきれた様に口をつぐんだ。技術一筋で会社を支えて来た。その自負は十分あるが、
今この重大な局面で会長の叙勲のことなど
思いも及ばなかったのだ。叙勲が大場の最大の
執着であるというこ
とに、俵は今初めて気づいたのである。
「だけど高品君、お役人の接待は今、大蔵省と銀行の間で大騒動になっているだろう。
通産省も相当神経質になってはいないかね。」

「副社長、その点も私がうまくやりますよ。通産省ではこの間の石油取引商との
スキャンダルがあったし、大蔵省のたかり役人や厚生
省の補助金ねこばば事件など
騒がれっ放しですね。この点でも我が
社のような貧乏会社はありがたい。お目こぼし
ならぬお目汚しにも
なりませんからね。接待伝票さえ別名儀にして、ごまかしておけば、
接待された役人の口から漏れることは絶対にありませんよ。」


(以下、次回に続く)

  白川零次PROFILE

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1936年韓国ソウル生まれ。東京大学法学部
卒業後、三井金属鉱業株式会社入社。ロンドン
事務所長、福岡支店長、営業部長等を歴任。
1996年から執筆、講演活動に入る。著書に
『ビジネスマン読本 司馬遼太郎』『同 松本清張』
『同 城山三郎』『泥舟の宴』等多数。